畠山義就に敗れ大和から追放される

筒井 順賢つつい じゅんけん

ポイント

  • 筒井順尊の子で筒井家当主
  • 細川・畠山家を大和から追い出し細川家を再興

概 要

大和の豪族・筒井家の当主・筒井順尊の子。細川・畠山家を大和から追放し筒井家を再興させた。

基本情報

誕 生?年
没 年?年
別 名藤王、良舜坊
氏 族筒井氏
主 君畠山尚順
家族構成
筒井順尊
不 明
正室越智家令娘
兄弟順賢順興

略 歴

1488年 ?歳  畠山順尊
1497年 ?歳  畠山尚順に従い大和で挙兵
1505年 ?歳  宿敵・越智家と和睦
1506年 ?歳  赤沢朝経との戦いに敗れる

家督相続

筒井氏らは、室町時代には畠山氏の配下であったが、畠山氏の内紛(畠山義就VS畠山政長)により大和の国人も二分され、混乱状態にあった。筒井氏が支援した政長は義就との戦いに敗れたため、筒井家も大和から追放され9代将軍・足利義尚の命で上京していた。
1488年、順賢が幼少時に父・筒井順尊が死去したため叔父・成身院順盛が後見人となり家督を継いだ。

細川家との戦い

1497年、畠山政長の子・畠山尚順細川政元畠山義豊(畠山義就の子)に反旗を翻して挙兵すると、順賢も呼応して十市通治と共に義豊方の越智家栄古市澄胤を攻めて没落させた。
1505年にそれまで抗争していた越智氏と和解、越智氏の娘を娶るが、その翌年に細川政元の部将・赤沢朝経と古市澄胤の攻撃を受け没落する。これに対し、大和国人衆は筒井氏・越智氏を中心に国人一揆(大和国人一揆)を結び朝経・澄胤に対抗した。以後も朝経に苦戦するが、 1507年に政元が暗殺されると、朝経も丹後国で戦死、これを機に順賢らは、大和の細川軍を追い出して本拠地へ戻った。

両細川の乱

赤沢朝経の養子・長経が政元の養子・澄元の命を受けて大和へ出兵すると国人一揆は敗れて崩壊、1508年に前将軍・足利義稙が周防国の大名・大内義興に擁立され両細川の乱が勃発すると大和の国人衆は再び分裂し、筒井家、十市家は細川高国側に付き、古市家・越智家は細川澄元側についた。 順賢は畠山尚順の後援によって赤沢長経を破り筒井氏を再興したが古市氏との抗争はその後も継続した。

順賢の死去時期については不明だが1521年には弟・順興が活動している