ポイント
- 筒井順興の子で筒井家当主
- 大和の戦国大名
- 越智家を破り筒井家の勢力を拡大する
概 要
大和の国衆。順昭の嫡男。父・順昭の病死により2歳で家督を相続した。松永久秀と争い、居城・筒井城を追われたが、のちに織田信長に従属して大和一国を拝領した。光秀の与力に属したが、本能寺の変後に光秀を裏切り 豊臣秀吉に仕えた。
基本情報
| 誕 生 | 1549年 |
| 没 年 | 1584年(36歳)(病死) |
| 墓 所 | 筒井順慶歴史公園 高野山悉地院(無量光院) |
| 改 名 | 藤勝 → 藤政 |
| 別 名 | 権少僧都 |
| 号 | 陽舜房順慶 |
| 氏 族 | 筒井氏 |
| 主 君 | 織田信長→豊臣秀吉 |
| 家族構成 | |
| 父 | 筒井順昭 |
| 母 | 大方殿(山田道安の娘) |
| 妻 | 多加姫(九条家女、足利義昭養女)、松(布施春行娘)、信長の娘か妹 |
| 兄弟 | 順慶、井戸良弘室、慈明寺順国の室、福住順弘の室、他 |
| 養子 | 定次、定慶、慶之 |
同じ年の武将
略 歴
| 1549年 | 1歳 | 筒井順昭の子として誕生 |
| 1550年 | 2歳 | 父が死去し家督を継ぐ |
| 1559年 | 11歳 | 松永久秀が大和に侵攻 |
| 1565年 | 17歳 | 松永久秀に敗れ布施城に逃亡 |
| 1567年 | 19歳 | 東大寺大仏殿の戦い |
| 1568年 | 20歳 | 信長が上洛 |
| 1571年 | 23歳 | 信長に従属する |
| 1572年 | 24歳 | 久秀が信長から離反 |
| 1573年 | 25歳 | 久秀が信長に降伏 |
| 1575年 | 27歳 | 越前一向一揆に参戦 |
| 1576年 | 28歳 | 信長より大和一国の支配を任される |
| 1577年 | 29歳 | 雑賀一揆の反乱を鎮圧 久秀が信長に反旗を翻す 久秀討伐の先鋒を務め久秀を討伐する |
| 1578年 | 30歳 | 大和平定 播磨攻めに参戦 |
| 1580年 | 32歳 | 郡山城に本拠を移転 |
| 1581年 | 33歳 | 天正伊賀の乱に参戦 |
| 1582年 | 34歳 | 本能寺の変 光秀の誘いを断り豊臣秀吉に恭順する |
| 1584年 | 36歳 | 死去 |
家督相続
1549年、大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれた。
筒井氏は興福寺一乗院に属する宗徒で、そのうち棟梁として指揮し寺務の配下として奈良市中を管理する官符宗徒の筒井家が武士化し、父親・順昭の代には大和最大の武士団となり、筒井城を拠点に大和の多数の豪族を従え戦国大名化していた。
1550年、父が病死したため、叔父の筒井順政の後見の元、2歳で家督を継いだ。
当時の大和は守護職の存在しない国で、「大和四家」と呼ばれる筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏が勢力を伸ばし争ってきた、
松永久秀による大和侵攻
1559年から三好長慶の家臣・松永久秀が大軍で大和に侵攻し、井戸城を攻略、さらに久秀は軍事侵攻を進め、信貴山城に入城しさらに筒井氏と協力関係にあった十市遠勝が久秀に降伏し娘を人質に出すなど、筒井氏にとって制圧され続ける厳しい情勢であった。
1565年、三好三人衆と松永久通の軍勢が将軍・足利義輝を殺害したが(永禄の変)、松永久秀と三好三人衆は決裂、松永久秀は急遽、将軍という後ろ盾をなくした順慶に奇襲を仕掛け、順慶は居城・筒井城を追われている(筒井城の戦い)。居城を追われた順慶は、一族の布施左京進のいる布施城に逃走した。
1566年になると、順慶は三好三人衆と結託し松永軍に反撃を開始し筒井城の奪還のため挙兵、美濃庄城を攻略すると、筒井城へ迫り松永の陣所を焼き払うなどした。
三好義継と戦争中の久秀は筒井城の救援には向かえず、順慶は筒井城の奪還を果たした。
1567年、順慶は再び三人衆や篠原長房と結び、奈良の大仏殿を占拠し城塞化して、多聞城の久秀と対峙した。久秀軍が東大寺に討ち入り決戦し大仏殿が久秀軍の兵火の残り火の失火で焼け落ちるが久秀側が勝つこととなる(東大寺大仏殿の戦い)。
1568年には、織田信長の台頭し、足利義昭を擁立して上洛、義昭が15代将軍に擁立され、畿内は信長に平定された。
松永久秀は幕府の直臣となり、大和国の支配権を承認された。これによって久秀は、筒井家の筒井城に軍を侵攻、順慶は叔父の福住順弘の下へと落ちのびた。
しかし、足利義昭は突然に方針を変更して筒井順慶に接近し、九条家の娘・多加姫を養女として順慶に嫁がせ、幕府方へ引き入れている。これを順慶を宿敵とする久秀は許せず、久秀は幕府を離脱した。
松永久秀・久通父子、三好義継らの連合軍と筒井軍は、辰市城の戦いで激突、この戦いは筒井軍の勝利で終わり、敗戦した久秀は筒井城を放棄し、順慶は再び筒井城を奪還することに成功した。
天正伊賀の乱では他の武将とともに織田信雄に属し、大和から伊賀へと進攻、3,700の手勢を指揮した。
信長に臣従し大和一国の大名となる
1571年、順慶は信長に臣従し、久秀も佐久間信盛を通じて信長に臣従したので、順慶と久秀は和睦した。しかし、将軍・義昭が信長と対立すると久秀も義昭と結託して信長から離反し「信長包囲網」に参加、三好義継と共に信長側の交野城を包囲した。この結果、織田方の順慶と松永久秀は衝突を繰り返していくこととなる。
その後、義昭が槙島城の戦いで信長に敗れて京都を追放され、それを匿った三好義継も信長に討伐されると(若江城の戦い)、松永久秀も多聞山城を取り巻かれ和議を申し込み、同城を明け渡す条件で信長に降伏した。
1575年、順慶は信長の娘か妹を妻に迎え、大和守護に原田直政が任命されると、順慶はその与力となり、越前一向一揆攻略にも原田直政の軍として参戦した。しかし、原田が石山本願寺の戦いで戦死すると、順慶は信長より大和国支配を任され明智光秀の与力となった。
その後は、雑賀一揆の反乱や久秀が信長に対して反旗を翻すと、松永久秀攻めの先鋒として参陣し松永家が滅亡すると大和平定が実現し居城を郡山城へ移転させた。
本能寺の変の後
1582年、本能寺の変が起こると、光秀の与力で縁戚関係でもあった順慶は光秀から味方になるよう誘われた。
順慶は消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力したが、最終的には光秀の誘いを断り豊臣秀吉への恭順した。順慶や同じく与力であった細川幽斎の説得に失敗した光秀は結局、「山崎の戦い」での敗走した。
その後、順慶は豊臣秀吉に拝謁したが、秀吉は順慶の遅い参陣を諸将の前で曲事(くせごと)と叱責した。順慶は秀吉への臣従の証として、養子(従弟、甥でもあった)定次を人質として差し出し以後、秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵された。
そして小牧長久手の戦いから帰還して程なく病気になり、36歳で病死した。
人 物
茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であり、能楽では「百万」を好んだ。
