淀殿の過激な庇護を受けた豊臣家最後の当主

豊臣 秀頼とよとみ ひでより

豊臣秀頼

豊臣秀頼像(養源院蔵)

概 要

豊臣秀吉淀殿の間に誕生した次男。
長男に先立たれたため、秀吉と淀殿の過激な寵愛を受け育った。6際の時に秀吉が死去し、衰退していった豊臣家の象徴的存在。
関ケ原の戦い後は摂津河内泉の65万石という一大名の地位に転落。その後、豊臣家滅亡をたくらむ家康により「大阪夏の陣」、「大阪冬の陣」で破れ淀殿ともに自害した。

  ポイント

  • 秀吉の次男で豊臣家の家督を次ぐ
  • 関ケ原の合戦後は摂河泉65万石という一大名の地位に転落する
  • 「大阪夏の陣」、「大阪冬の陣」で徳川家康に破れ自害する

誕生・死没

  • 誕生:1593年
  • 死没:1615年
  • 享年:23歳

墓所

  • 京都市東山区の養源院
  • 京都市右京区の清凉寺
  • 高野山の奥の院
  • 鹿児島市谷山の墓所

名 前

  • 幼名:拾(幼名)
  • 戒名:帰寂山高陽寺殿秀山大居士

官 位

  • 従三位・左近衛権中将、従二位・権中納言、権大納言、正二位、内大臣、右大臣

氏族

同い年の人物

  • 青山成次、阿部政澄、伊東長昌、井上就貞、江崎善左衛門、大久保忠知、木村徳応、京極忠高、久世通式 西郷正員、田中吉官、豊島朝房、豊臣十丸、豊臣秀頼、平田宗次、福原元房、本多正貫、前田利常、 牧村牛之助、松平清昌、松林蝙也斎、森重政

親 族

豊臣秀吉
淀殿
正室 千姫
側室 和期の方(伊茶、渡辺五兵衛の娘)、小石の方(成田助直の娘)
兄弟 石松丸?、鶴松、秀頼
国松、天秀尼他
小一郎(夭折)、大善院(毛利秀元の正室)、おみや(豊臣秀保の正室)
養子 秀保藤堂高吉(仙丸)、岩(名古屋山三郎の妹。小一郎室、後に森忠政室)
智勝院(岩)名古屋山三郎の妹。森忠政の正室)

略 歴

1593年 1歳  秀吉と淀殿の子として誕生
1595年 3歳  関白・豊臣秀次が自害する
1596年 4歳  豊臣秀頼を名乗る
1597年 5歳  元服
1598年 6歳   秀吉が死去
1600年 8歳  関ケ原の戦い
摂津・河内・和泉の約65万石の一大名の立場に転落
1603年 11歳  家康が征夷大将軍となる
徳川秀忠の娘・千姫と結婚
1614年 22歳  大阪冬の陣で徳川家康に敗れる
1615年 23歳  大阪夏の陣が勃発
大阪城が陥落し秀頼と淀殿が自害

出 自

1593年、秀吉と淀殿との間の子として誕生した。秀吉が57歳の時の子である。
子供が丈夫にに育つとされる民間習俗にならって、家臣の松浦重政が拾う役を担っている。

秀次自害

秀吉は秀頼が生まれる前に姉と三好義房の子・秀次が後継者として養子入りし関白職を譲っていた。
当初は秀次と秀頼の関係を調整するため、秀頼と秀次の娘を婚約させ、秀吉から秀次、秀頼へという政権継承を模索した。
しかし、秀吉は実子の秀頼を後継者にするため、秀次の関白職を排除し謀反の疑いをかけ一族全員を自害・殺害させた。
こうして秀頼の後継者としての地位が確定し、秀吉は各大名に秀頼に忠誠を誓約する起請文を作成し、多くの大名達に血判署名させた。

秀吉死去

1596年、秀頼は秀吉とともに初めて参内し、豊臣秀頼と称した。。秀吉は、それまで個人的な独裁体制の色彩が強かった豊臣政権に、御掟・御掟追加などの基本法や五大老・五奉行などの職制を導入して、秀頼を補佐する体制を整えた。
1597年9月に僅か5歳で元服これは秀吉が生きている内に秀頼を一人前にしたいと考たからである。
そして、1598年に秀吉が死去すると、秀頼は家督を継ぎ、秀吉の遺命により大坂城に移った。

関ケ原の戦い

関ケ原の戦い勃発

1600年、秀吉の死後に実権を握った家康に対して秀吉の側近・石田三成が挙兵して関ヶ原の戦いが勃発した。
秀頼は西軍の総大将・毛利輝元の庇護の下に置かれが、この戦いは東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを大義としており、戦後に秀頼は家康を忠義者として労った。

戦後の処理

関ケ原の戦いが家康率いる東軍の勝利によると、家康は豊臣の所領220万石を勝手に分配し、秀頼は摂津・河内・和泉の約65万石の一大名の立場に転落した。また、空席となっていた関白の位は九条兼孝が就任した。

江戸幕府の創立

1603年、家康は武家の最高地位である征夷大将軍の官職を獲得。諸大名を動員して江戸城の普請を行わせ、江戸幕府の構築を始め、秀頼は次第に天下人の座から外されてゆくことになる。 また、秀頼は生前の秀吉の遺言で婚約していた徳川秀忠の娘・千姫(母は淀殿の妹であるお江で秀頼の従兄弟にあたる)と結婚した。

しかし、摂家(関白になる家格にある家)として秀吉と同様な扱いを朝廷から受けており順調に位階や官職の昇進を遂げている。

二条会見

1605年、家康が高台院を通じて、秀頼に臣下の礼(家康の臣下を示す儀礼)を取るように、秀頼の生母である淀殿に要求した。これに対し淀殿は豊臣氏の家格を守ろうと会見を拒絶した。
しかし、後水尾天皇の即位に際して上洛した家康は二条城で秀頼の上洛を改めて求めると、加藤清正浅野幸長ら豊臣家に恩の大名らの説得により会見が実現した(二条城会見)。
この会見の意味については諸説あり、秀頼の家康への臣従を意味すると見る説と、引き続き秀頼が家康との対等性を維持したと見る説とがあり、史家の間でも見解が分かれている。

大阪の陣

方広寺大仏の再建

1607年、秀頼は家康の勧めにより片桐且元を奉行として秀吉の発願した方広寺大仏(京の大仏)の再建を行った。(再建の理由は諸説有り)
1612年中に大仏殿はほぼ完成し、その2年後の1614年に落慶供養の梵鐘が完成した。しかし、家康はこの梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」について、前者には家康の諱を「家」と「康」に分断して家康を呪詛している、 後者には豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているという難癖をつけて家康が一方敵に秀頼との関係を断絶した。

大阪冬の陣の開戦

豊臣家は鐘銘問題の弁明のため、片桐且元を交渉役として駿府に派遣した。しかし逆に且元は他の重臣達から家康との内通を疑われるようになり秀頼による且元暗殺計画も浮上するようになった。
こうなると両者の戦は決定的になり、秀頼による且元殺害の計画をしった家康は、諸大名に出兵を命じた。豊臣方は必死に弁明の書状をを家康や諸大名に送ったが、家康はこれを受け入れず、大坂の陣が開戦していった。

。秀頼は福島正則・加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に援軍要請をしたが、大名で大坂方に味方した者はなく、大坂城には真田信繁後藤基次長宗我部盛親など、関ヶ原の戦いで改易された元大名や主家が主軍となりその他浪人していた数万の武士が入城した。
戦が始まると大坂城の周辺の砦が次々と攻略され、大阪方は残った砦を放棄して大坂城に撤収、大坂城での戦闘では浪人衆の活躍や大坂城の防御力により、幕府軍は苦戦、城内に攻め入ろうにも撃退ばかりされ、特に真田丸の戦いでは幕府方が損害を受けた。
その後、両者決着がつかず双方の食糧・弾薬が尽き始めたため、家康は大坂城の堀の破却を条件として和議を提案、大阪方がこれを受理した。

大阪夏の陣の開戦

大阪城の堀を埋めるということで和議が成立されたが大阪方は一行に堀の工事を行わず、幕府方が自ら工事を進め。
また、大坂方は浪人の総追放や国替(大坂城退去)を拒否し、堀を掘り返し始めた。このため、家康は和議が破られたとして戦争の再開を宣言し、大坂夏の陣が勃発した。

緒戦で敗戦が続き疲弊した大阪方は、家康・秀忠父子が大坂に布陣したところに決戦を挑んだ。(天王山・岡山の戦い)
戦いは大阪方が真田信繫等の奮戦により一時は家康に自害を覚悟させるほと追い詰めるが幕府側の大軍に及ばず信繁は退却中に討ち死に。他の大坂方の部隊も次々と壊滅した。
そして、幕府軍は大阪城に入場、追い込まれた秀頼・淀殿は大阪城内で自害した。
家臣の大野治長は秀頼の正室で秀忠の娘・千姫を無理に脱出させて、秀頼母子の助命を乞おうと考えたが秀忠はこれを許さなかったという。

秀頼の死後

秀頼と側室の子、国松は逃亡したものの結局、捕らえられて処刑され。娘の天秀尼は千姫の助命嘆願の働きかけもあり仏門に入ることを条件に助命された。

逸話・人物

並外れた巨漢

後藤又兵衛の小姓を務めた長澤九郎兵衛の覚書『長澤聞書』には、「世に無き御太り」と記され。江戸中期成立の逸話・見聞集『明良洪範』は身長6尺5寸(約197cm)、体重43貫(約161kg)の並外れた巨漢であったとする。

生存説

大阪城が落城した際、秀頼達が絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから鹿児島を中心に秀頼が落ち延びてきたという生存説がある。

参考資料(引用元)

豊臣秀頼が出演した作品

  • 『大坂城の女』(1970年、演:高橋長英など)
  • 『真田幸村の謀略』(1979年、演:小倉一郎)
  • 『おんな太閤記』(1981年、演:井上純一など)
  • 『女たちの大坂城』(1983年、演:船越英一郎)
  • 『真田太平記』(1985 - 86年、演:円谷浩)
  • 『春日局』(1989年、演:渡辺徹など)
  • 『風雲!真田幸村』(1989年、演:新井昌和)
  • 『葵 徳川三代』(2000年、演: 尾上菊之助など)
  • 『江〜姫たちの戦国〜』(2011年、演: 太賀)
  • 『影武者徳川家康』(2014年、演: 髙地優吾)
  • 『真田丸』(2016年、演:中川大志)
  • 『どうする家康』(2023年、演:作間龍斗)