秀吉の弟・秀長の養子となり紀伊・大和を治めた秀吉の甥
概 要
豊臣秀吉の母・大政所の姉、「とも」と三好吉房の子として誕生した。
秀吉の弟・秀長の養子となり秀長の没落後は藤堂高虎とと桑山重晴の後見を受けて紀伊・大和を治めが、乱行の噂が絶えなかったという。
最期は病死とも川遊び中に事故死したとも言われている。
ポイント
- 秀吉の甥
- 豊臣秀長の養子となり紀伊・大和の領主となる
- 最期は病死とも事故死ともいわれている
誕生・死没
- 誕生:1579年
- 死没:1595年
- 享年:17歳
墓所
- 善正寺(善正寺(京都府京都市左京区岡崎東福ノ川町9))
名 前
- 遍歴:辰千代/御虎(幼名)→ 羽柴秀保 → 豊臣秀保
- 別名:秀俊
- 通称:大和中納言、郡山中納言
- 戒名:瑞光院花嶽妙喜または瑞光院華嶽春英
官 位
- 侍従、従四位下参議近衛権中将、従三位権中納言、贈大納言
主 君
氏族
同い年の人物
略 歴
| 1579年 | 1歳 | 三好吉房の三男として誕生 |
| 1591年 | 13歳 | 豊臣秀長の娘の婿入りし養子となる 秀長の家督を遺領を継承する |
| 1592年 | 14歳 | 中納言になる 名護屋城の普請に参加 |
| 1595年 | 17歳 | 死 去 |
幼少期
出 自
1579年、三好吉房と秀吉の姉・日秀尼(とも)の三男として生まれた。
長兄に後に関白になる豊臣秀次、次兄に豊臣秀勝がいた。
秀吉の弟・秀長に養子入りする
秀吉の後継者候補となっていた兄・秀次と共に幼少より昇進を重ね、10歳ごろには侍従に任じられ、嫡男を亡くしていた秀吉の弟・秀長の養子になることが決まっていたとされている。
秀長の後継者として
13歳で叔父・秀長の跡を継ぐ
1591年、秀保が13歳のころ、死の床に就いた叔父・秀長の4、5歳になる娘(おみや)と祝言をあげ、秀長の正式な養嗣子として披露された。
その後、秀長が死去すると秀長の家老・藤堂高虎と桑山重晴の後見を受けて大和郡山城主となり秀長の遺領、大和・紀伊2か国を継承し、豊臣姓を下賜された。
中納言
1592年には従三位権中納言となり、以降は「大和中納言」または「郡山中納言」と呼ばれた。また、秀保は豊臣家中において叔父・秀長の家を相続したこともあり官位などの面で次兄・秀勝よりも上位であり、長兄・秀次が関白に就任して以降は豊臣一門衆筆頭の扱いであった。
徳川家康らと連名で提出した起請文においても家康に次いで署名するなど、諸大名中でも家康に次ぐ立場であった
文禄の役(朝鮮出兵)
朝鮮には出兵せず名護屋に陣を置く
秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)が行われると秀保は名護屋城の普請に参加、次いで兵1万5千を率いて参陣するが、自身は渡海せずに名護屋城下に陣屋を築いて滞在した。
その後、藤堂高虎を名代として配下の諸将は出陣し、紀伊の海賊衆を中心に桑山元晴・一晴、杉若氏宗・無心、堀内氏善らは朝鮮半島南岸で水軍として戦っている。
第一次朝鮮出兵が終わると、高虎と共に名護屋を引き上げて下関まで戻り秀吉の後を追って上洛した。
死 去
朝鮮出兵が終わり上洛した秀保は京都で吉野の花見大会に参加したほか、おみやと正式な婚礼を行った。
しかし、1595年に急死した。秀吉はその死を悼む姿勢を見せず、葬儀を隠密裏に済ませるよう命じたという。死後に大納言を遺贈された。
また、秀保には嫡子はなく、秀長の養子となっていた藤堂高吉も藤堂家を継いでいたため、秀長の大和豊臣家は断絶した。
秀保の死因
秀保の死因については下記の通り諸説ある
小姓に怨まれそのまま溺死
秀保が吉野川上流を散策している時、秀保は数十丈の断崖より、稚児小姓に飛び降りろと命じた。小姓は理不尽な仕打ちに怒りを堪えきれずに、いきなり秀保に跳びかかり抱きついたまま、深流に飛び込んでともに溺死したとする。
病死
『駒井日記』によると、秀保は疱瘡か麻疹を患い病死したいう。、
逸 話
尼が池
奈良県郡山町(現大和郡山市)に伝承によると秀保は臨月の婦人を捕らえ「腹を割いて胎児を見せよ」と命じた。妊婦は驚き、尼となって助命嘆願をしたが許されなかったため、腹を割いて胎児を出し、池に身を投げたという
蛇が池
秀保が忍術師に「この池から大蛇を出して見よ」と命じた。忍術師が呪文を唱えると、涸れ池が水で満ちていき、大蛇が出現して秀保をひと呑みにしようとしたため、秀保は慌てふためいて郡山城に逃げ帰った。そのため、家臣は二度と大蛇が出現しないように池底の穴を大石で埋めたという。
参考資料(引用元)
豊臣秀保が出演した作品
- 『おんな太閤記』(1981年、NHK大河ドラマ、演:廣貴久→中越司)
- 『真田丸』(2016年、NHK大河ドラマ、演:三津谷亮)