秀吉を支え続けた人望が高かった秀吉の弟

豊臣 秀長とよとみ ひでなが

豊臣秀長

豊臣秀長像
(奈良県大和郡山市の春岳院所蔵)

概 要

豊臣秀吉の3歳下の異父弟(同父弟とも)。
秀吉に異を唱えることができる数少ない人物であり、人望が高く豊臣政権において内外の政務および軍事面で活躍を見せ、秀吉の右腕として天下統一に貢献した。
最終的には大和・紀伊・和泉の3ヵ国と河内の一部を加えた110万国の大大名なった。

  ポイント

  • 秀吉の3歳下の弟
  • 優れた戦略眼と優れた政策を発揮し秀吉の右腕として秀吉を支える
  • 大和・紀伊・和泉の3ヵ国と河内の一部を加えた110万国の大名となる

誕生・死没

  • 誕生:1540年
  • 死没:1591年
  • 享年:52歳

墓所

  • 奈良県大和郡山市(大納言塚)
  • 大徳寺大光院(京都市北区)

名 前

  • 木下長秀 → 羽柴秀長 → 豊臣秀長
  • 小竹(幼名)
  • 長秀(別名)
  • 小一郎(通称)、美濃守(通称)、大和大納言(通称)

官 位

  • 従五位下、美濃守、従四位上、参議兼右近衛権中将、従三位、 権中納言、正三位、従二位、権大納言

主 君

氏族

親 族

竹阿弥
大政所
正室 智雲院
側室 興俊尼(秋篠伝左衛門の娘)
兄弟 日秀尼(智)秀吉秀長朝日姫(旭)
小一郎(夭折)、大善院(毛利秀元の正室)、おみや(豊臣秀保の正室)
養子 秀保藤堂高吉(仙丸)、岩(名古屋山三郎の妹。小一郎室、後に森忠政室)
智勝院(岩)名古屋山三郎の妹。森忠政の正室)

略 歴

1540年 1歳   竹阿弥と大政所の子として誕生
1573年 34歳   秀吉が長浜城主となり秀長が城代となる
1574年 35歳   秀吉の代理として長島一向一揆に参陣
1575年 36歳   羽柴の姓を名乗る
1577年 38歳   秀吉の播磨・但馬攻めに参陣
竹田城の城代に任命
1578年 39歳  東播磨の別所長治が反旗を翻す
1579年 40歳   三木氏の綾部城を攻略
1580年 41歳   秀吉によって但馬国が平定
1581年 42歳   鳥取城を囲み兵糧攻めを行う
1582年 43歳   秀吉が備中高松城を包囲
 本能寺の変 
 山崎の戦いに参陣
1583年 44歳   賤ヶ岳の戦い
 大阪に拠点を移動
1584年 45歳   小牧・長久手の戦いが勃発し秀長が伊勢へ進軍し松ヶ島城を落とす
1585年 46歳   紀州征伐で副将となる
大将として四国攻めに出陣
1587年 48歳   日向方面の総大将として九州平定に出陣
1589年 50歳   淀城の改修を担当する
1591年 52歳   秀長が死去

出 自

1540年、秀吉の父とは異なる、竹阿弥大政所の子として尾張国愛知郡中村(現・名古屋市中村区)に生まれた。秀吉の3歳下である。
※一説には秀吉の父と同じ木下弥右衛門の子との説あり

信長に仕官

詳細な時期は不明(秀長25歳頃?)だが、秀長は織田信長の家臣として活躍するようになった秀吉に連れられて信長に出仕し、兄と共に信長の家臣となった。
1573年、信長が浅井氏を滅ぼすと秀吉はその戦功により長浜城主となった。秀長は秀吉の留守の間の城代を務めたという。

信長が足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼすと、伊勢長島で一向一揆が勃発、秀吉は越前一向一揆と対峙して出陣できなかったため、秀長は秀吉の代理人として長島一向一揆討伐に出陣し見事な活躍をした。

1575年には「羽柴」の名字が与えられた。

播磨・但馬平定

秀吉が信長の命令により中国攻めの総司令官となると、秀長は山陰道及び但馬国平定の大将を務めた。
1577年、秀長は秀吉に従い播磨国に出兵そのまま但馬攻めに参戦、但馬竹田城が秀吉の家臣・斎村政広によって落城(竹田城の戦い)すると、秀長は竹田城の城代に任命された。
1578年に東播磨地域で別所長治が信長に対して反旗を翻すと、秀長は秀吉と共に鎮圧に明け暮れることとなり、支配の後退した但馬を再度攻めることとなった。
1579年、別所長治の三木城への補給を断つため丹生山を襲撃、続いて淡河城を攻める三木城への補給路を断つことに成功した(三木合戦)。さらに但馬竹田城より丹波北部の天田郡、何鹿郡に攻め入り江田氏の綾部城を落城させ、その結果別所一族が切腹し、三木合戦が終戦する。

1581年、但馬を平定した秀吉は続いて因幡の国へ侵攻し、吉川経家が守る鳥取城を取り囲み、兵糧攻めを開始した(鳥取城の戦い)。
秀長も鳥取城の包囲する陣城の一つを指揮し、兵糧攻めから3ヵ月後、吉川経家の切腹により戦いは終わった。

本能寺の変後

山崎の戦い

1582年、織田信長が明智光秀による謀叛(本能寺の変)で死去すると、秀吉軍はすぐに毛利家と和睦協定を結び、畿内へ撤退を開始する(中国大返し)。
秀長も秀吉の「中国大返し」に従って、京都に引き返えした。秀吉軍が京都につくと山崎の戦いで明智光秀との戦いこれを破った。秀長はこの戦いで黒田孝高と共に天王山の守備にあたった。

賤ヶ岳の戦いに参戦

秀吉と勝家が対立し「賤ヶ岳の戦い」が勃発すると秀長もこれに参陣。
田上山に布陣して秀吉が「美濃大返し」を行うまで本陣を守備し秀吉の勝利に貢献した。

その年、秀長は美濃守に任官し、但馬・播磨の2ヶ国を拝領して竹田城と姫路城を居城にした。

小牧・長久手の戦い

1584年、秀吉は織田信雄と手を結んだ徳川家康との間で戦が勃発した(小牧・長久手の戦い)
秀長は家康と連合を組んでいる織田信雄領の伊勢へ進軍し、松ヶ島城を落とすなどの戦功を挙げた。しかし、秀吉が家康に敗れると、秀長は秀吉の名代として信雄との講和交渉を行って成功させている。

紀伊・四国攻め

1585年、秀吉は自身に従わない雑賀衆討伐のため紀州征伐を決行した。秀長は秀次と共に秀吉の副将に任命され、太田城攻めなどに参加する。
紀州制圧後、秀吉から功績として紀伊・和泉などの約64万石余の所領を与えられると、秀長は和歌山城の築城を開始、普請奉行に藤堂高虎を任命した。

四国攻め

1585年、秀吉は四国を統一した長宗我部家討伐を決行。
当初は秀吉が大将として出陣する予定であったが、直前になって秀吉が病になったため、秀長は秀吉の代理人として10万を超える軍勢の総大将に任じられ、阿波へ進軍した。
しかし長宗我部氏の抵抗も激しく、また毛利氏・宇喜多氏の合同軍のため侵攻が遅れ気味となった。心配した秀吉から援軍の申し出がなされたが、秀長は断りの書状を秀吉に送ると、一宮城を落とし長宗我部元親を降伏させた。
秀長はその戦功として、紀伊国・和泉国に、大和国を加増されて、合計100万石で郡山城に入城した。※実際の石高は73万4千石であった。
秀長の領国である紀伊・大和・和泉地方は寺社勢力が強く、決して治めやすい土地柄ではなかったが、大きな問題も残さず内政面でも敏腕であったことが推測される。

四国討伐の後に秀長は「豊臣」の姓を与えられたほか、従二位、大納言の官位を得て、大和大納言と称される。

家康上洛

1586年、上洛を拒否し続けた家康が重い腰をあげ上洛を決意した。大坂に到着した家康は、秀長邸に宿泊し、その晩、秀吉は自ら秀長邸の家康の元を訪れ臣従を求める出来事が起きる。

九州平定

1587年、秀吉は島津氏の圧迫のため窮地に追い込まれていた大友氏を救援するため、九州征伐の号令を発した。
秀長は、日向方面の総大将として出陣、島津方の高城を包囲すると、援軍として駆けつけた島津義弘が宮部継潤の陣に夜襲を仕掛ける(根白坂の戦い)。
継潤が抗戦している間に、藤堂高虎・戸川達安らが合流する。島津軍の夜襲は失敗に終わり、島津軍が薩摩国に撤退した。その後、島津家久が講和に秀長を訪ね、日向方面の進軍は終了。秀長はこの功績により、権大納言に叙任された。

晩 年

1589年、鶴松(後の秀頼)を懐妊した秀吉の側室・茶々の産所とするため淀城の改修を担当した。
その後、秀長の体調は悪化、小田原征伐には参陣できず畿内の留守を務めた。

その、病状の悪化した秀長は居城・郡山城内で病死した。52歳であった。

秀長の後継者

秀長には跡継ぎがいなかったため、家督は養嗣子になっていた甥(姉・智の息子、秀次の弟)の秀保が継いだ。
しかし、その4年後に秀保も17歳で死去し秀長の家系は断絶した。

人 物

性 格

秀長は温厚な性格で、心が広く度量が大きかったと言われている。
そのため、よく秀吉の欠点を補い、諸大名は秀長に秀吉へのとりなしを頼み、多くの者がその地位を守ることが出来た。

金貸し

秀長は民に対して「ならかし(奈良借)」と呼ばれる強引な高利貸行為を行っていたとされている。
それは秀長死後も継続しておこなっており。秀長の死後に大和郡山城に金銀が備蓄されておりこうした行為の結果によるものであった可能性がある。

参考資料(引用元)