小田原征伐後、岐阜を所領とした秀吉の甥

豊臣 秀勝とよとみ ひでかつ

  ポイント

  • 秀吉の甥で三好吉房の三男
  • 秀吉の養子となり美濃13万石の大名となる
  • 朝鮮出兵中に戦死する

誕生・死没

  • 誕生:1569年
  • 死没:1592年
  • 享年:24歳

墓所

  • 善正寺(善正寺(京都府京都市左京区岡崎東福ノ川町9))

名 前

  • 幼名:小吉
  • 通称:丹波少将、大柿少将、丹波中納言、岐阜中納言

官 位

  • 侍従、左近衛権少将、従四位下参議、正三位中納言

同い年の人物

親 族

三好吉房
養 父 豊臣秀吉
日秀尼
兄弟 秀次秀勝秀保
義兄弟 秀勝(石松丸)鶴松秀頼秀勝(信長の四男)、秀俊、豪姫、秀家、秀康
義兄弟 小早川秀秋豪姫宇喜多秀家秀康(家康の次男)
正室 浅井長政の三男
豊臣完子

略 歴

1569年 1歳  三好吉房の子として誕生
1582年 15歳  本能寺の変
1586年 19歳  豊臣秀吉の養子になる
1587年 20歳  九州征伐に参陣
1588年 21歳  豊臣姓を賜る
1590年 23歳  小田原征伐に参陣
小田原征伐の論功により甲斐国が与えられる
1591年 24歳  美濃岐阜城13万石へ転封
秀吉の嫡男・鶴松が死去
1592年 25歳  文禄の役に参陣
朝鮮出兵の陣中で病死

出 自

1569年、豊臣秀吉の姉・日秀(とも)三好吉房の次男として誕生した。

豊臣政権

秀吉の養子となる

豊臣政権下の1585年、秀吉の怒りに触れた加藤光泰が改易・蟄居となったので、没収された大垣城に一柳直末が移り、直末の居城・近江勢田城が秀勝に与えられた。 その後、秀吉の養子となるが時期は不明で、同じく秀吉に養子入りした信長の四男・羽柴秀勝が病死した直後の1586年だったと言われている。 一説には、豊臣秀勝は羽柴秀勝の官位及び所領を受け継いだと言い、同じく丹波亀山城主となり浅井長政の三女・を正室に迎えた。

九州征伐

1587年、九州征伐が勃発すると秀勝は本役の人数である5,000人を率いて従軍した。
秀吉の本隊が小倉に上陸すると秀勝・蒲生氏郷前田利長は、島津側の秋月種実配下の熊井久重の守る岩石城(巌石城)の監視を命じられた。
軍議において蒲生氏郷・前田利長が交通の要衝である岩石城を攻め落とさせてくださいと秀吉に要請したので、これが了承されて、秀勝がその攻撃の総大将に任じられた。蒲生隊2千余と前田隊3千が奮戦し、 秀勝隊は予備に回って助勢して、城は力攻めによって落とされた。

小田原征伐

1589年、秀勝は丹波亀山10万石を与えられるがそれでは知行不足であると秀吉に文句を言ったため、その怒りを買って所領を没収されて、丹波亀山は豊臣秀長に与えられた。
しかし、その後1590年に小田原征伐が勃発すると秀勝は2,800人を率いて従軍。山中城攻めに参加して兄・秀次と共に中軍を形成した。
小田原征伐後の論功行賞で、関東に転封される徳川家康の旧領地から、秀勝に甲斐国を与えられた。
その後、甲斐に移封した秀勝だったが秀勝の母、日秀尼が甲斐は僻地で遠すぎると太閤秀吉に懇願を続けたため、秀勝による甲斐支配は8ヶ月程度に留まり美濃岐阜城13万石へと転封となった。甲斐信濃23万石は替わって加藤光泰が入部した。

朝鮮出兵

1592年、朝鮮出兵が勃発すると秀勝は8,000の兵を率いて、九番隊の大将として従軍した。
秀勝は細川忠興と共に壱岐島から朝鮮国の巨済島に渡った。
巨済島に上陸した秀勝は島で半年ほど滞陣していた間に病を発し、そこから数日後に秀勝は陣中で病死した。享年24。
秀勝の遺体は京の嵯峨亀山に輸送され、日秀尼によって善正寺に葬られた。

秀勝の死後

秀勝の遺領である岐阜城と家臣団、九番隊の指揮権はそのまま織田秀信に与えられた。
秀勝が病死した年には秀勝と江の間に完子が産まれ、完子はその後江の実姉である淀殿の養女となり、成長した後に九条幸家(忠栄)に嫁いだ。

参考資料(引用元)

豊臣秀勝が出演した作品

  • おんな太閤記(1981年、NHK大河ドラマ、演:内田直弘→橋満耕司→古川武生→竹村晴彦)
  • 江〜姫たちの戦国〜(2011年、NHK大河ドラマ、演:AKIRA)
  • 真田丸(2016年、NHK大河ドラマ、演:堀越光貴)