ポイント
- 田村氏顕(清顕の弟)の嫡子
- 伊達政宗によって田村氏の当主となる
- 田村家最期の当主
- 滅亡後は伊達家に仕える
誕生・死没
- 誕生:1574年
- 死没:1648年
官職・役職
- 官位: 不 明
略 歴
1574年 | 1歳 | 田村氏顕の子として誕生 | 1589年 | 16歳 | 政宗の後援により田村家の当主となる | 1590年 | 17歳 | 小田原征伐に参陣しなかったため改易となる | 1648年 | 74歳 | 死 没 |
概 要
田村家26代当主。田村友顕(清顕の弟)の子。伯父・清顕に子がなかったため、伊達政宗の後援で田村家を継いだ。豊臣秀吉の奥州征伐で所領を没収され、その後は伊達家に仕えた。
家督相続(田村仕置き)
田村氏25代当主・田村清顕が1586年に嗣子のないまま没すると、家中はそれぞれ姻戚関係にある伊達氏と相馬氏の勢力争いで分裂した。
相馬義胤が三春入城を企てて田村家を掌握しようとするがこれが失敗、最終的に伊達政宗によって顕季が田村氏の当主とされ、家中の混乱は収まった。(ただし、政宗と田村月斎・田村梅雪斎ら田村氏の重臣達の協議によって、宗顕は政宗と愛姫の男子が成長して田村氏の家督を継ぐまでの「名代」として位置づけられていた)
宗顕は初名を「顕季」と名乗っていたが政宗から「宗」の偏諱を与えられて宗顕と名乗る。
奥州仕置き
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、宗顕は伊達氏の傘下と自認していたため参陣しなかった。しかし、豊臣秀吉に独立大名と見なされて改易され田村家は滅亡した。その後、牛縊定顕と改名して片倉重長の白石城下で隠棲し[4]、子・定広と男猿は片倉氏を称した。宗顕の子孫は現在まで片倉姓を称している。田村氏の名跡は宗顕の死後、慶安5年/承応元年(1652年)に伊達忠宗[5]の三男・宗良が継いだ。
田村家滅亡後
奥州仕置きにより所領を失った宗顕は「牛縊定顕」と改名して片倉重長(伊達家)の白石城下で隠棲し、子・定広と男猿は片倉氏を称した。
宗顕の子孫は現在まで片倉姓を称している。田村氏の名跡は宗顕の死後、1652年に伊達忠宗の三男・宗良が継いだ。