ポイント
- 結城家臣
- 中央政権と結び付き独立を目指す
- 関が原合戦で西軍に属し改易
官職・役職
- 官位: 従五位下修理大夫
略 歴
1559年 | 1歳 | 多賀谷政経の嫡男として誕生 | 1576年 | 18歳 | 父の死没に伴い家督を継ぐ | 1590頃 | 32歳 | 小田原征伐に参陣 結城氏の傘下に不満を持ち佐竹傘下に加わる |
1592頃 | 34歳 | 豊臣秀吉により下妻城を没収sれ廃城される | 1600年 | 42歳 | 関が原合戦で西軍に属したため改易 | 1618年 | 60歳 | 彦根で死没 |
概 要
多賀谷氏は結城家臣であったが半ば独立した大名でもあり、結城氏と佐竹氏の双方に属する特殊な立場だった。
重経は、北条氏に対抗して独立色強め、織田信長に名馬を送り、信長の死後は秀吉に雁を贈るなどして接近した。
しかし、関が原合戦では西軍に属し、所領を没収され放浪の末死没した。
結城家臣?いち大名?
1558年、結城家臣・多賀谷政経の子として誕生。1576年には父の死により家督を継ぐ。
上杉謙信や佐竹義重と結んで小田氏・岡見氏を攻撃、また、独立色を強め牛久地方への進出を図ったり、織田信長に名馬を送り、信長の死後は秀吉に雁を贈るなどして中央政権との関係を強め独立を図って、度々行動した。
対北条軍として
1590年の小田原征伐においては後北条氏方の天神城を攻略している。
また、重経は1000挺もの鉄砲隊を保有しており、関東では佐竹氏の鉄砲隊と並ぶ規模である。
小田原征伐後
小田原征伐の終了後、多賀谷氏は結城氏の傘下に再び組み込まれ、主家・結城氏の跡継ぎとして結城秀康が入嗣すると、これに不満を持って、佐竹氏の傘下に降った。
秀康に従った嫡男の三経を追放し代わりに佐竹義重の四男の宣家を養子として家督を譲った。
1592年には、文禄の役に非協力である事を理由に下妻城を没収され、その後豊臣秀吉の命を受けた徳川秀忠らによって城を廃止された。
関が原合戦
1600年、関ヶ原の戦いが起こると、重経は上杉景勝に通じ西軍に属した。そのため翌年の2月に改易され所領を全て没収された。
追放した長男・三経は秀康に従って福井藩の重臣となり、宣家は実家の佐竹氏に戻った後で今度は岩城氏を相続して出羽国亀田藩主となった(岩城宣隆)。このため、家臣達も重経を見捨てて三経や宣家の家臣になってしまった。
最 期
孤独の身となった重経は1618年に、密かに旧領の下妻へ戻るが榊原康政に追われ、各地を放浪の末に末子の茂光が仕えていた彦根藩を頼り、そのまま病死した。