短歌や連歌に優れ、文武に長けた豊臣六大将の一人

佐竹 義宣さたけ よしのぶ

孫根城址

佐竹義宣 肖像画

  ポイント

  • 佐竹家19代当主として、伊達家と抗争を繰り返す
  • 小田原征伐では、秀吉に従軍する。
  • 関が原合戦では、中立を保ち、転封となる。

誕生・死没

  • 誕生:1570年
  • 死没:1633年
  • 享年:64歳

名 前

  • 徳寿丸(幼名)
  • 次郎(別名)
  • 常陸侍従(別名)

官職・役職

  • 従四位上左近衛中将
  • 右京大夫

親 族

  •  父 : 佐竹義重
  •  母 : 伊達晴宗の娘
  • 正室 : 那須資胤娘・正洞院
  • 継室 : 多賀谷重経娘・大寿院
  • 側室 : 蘆名盛興娘・岩瀬御台
  • 兄弟 : 蘆名義広
  • 兄弟 : 江戸実通室
  • 兄弟 : 岩城貞隆
  • 兄弟 : 岩城宣隆
  • 兄弟 : 義兼
  • 兄弟 : 義直(後に義宣に養子に入り家督を継ぐ)
  •  子 : 義隆(養子(義重の三男・岩城貞隆の子))

略 歴

1570年…義重の嫡男として生まれる
1572年…那須家の娘を妻として迎える(義宣3歳の頃)
1585年…壬生氏攻めで初陣を飾る
1586年…1586~1590年の間で家督を継ぐ
このころから豊臣秀吉と音信を通じ、石田三成及び上杉景勝と親交を結んでいた
1587年…弟の義広を蘆名家に養嗣子として入れる(弟の小次郎を養嗣子にしようとした伊達政宗はこれに反発する)
1588年…奥州の諸大名と連合して再び政宗と戦うが、これに敗れる。(郡山合戦)
1589年…蘆名家が伊達家によって滅亡させられると、陸奥南部の諸大名は伊達氏に寝返る。
これにより佐竹家は南は北条氏、北は伊達氏と2代勢力に挟まれ滅亡の危機を迎える。
1590年…小田原征伐に参陣し、秀吉から常陸国54万石の支配権を認められる。
従四位下の位を賜り、侍従・右京大夫に補任される。
1591年…秀吉から羽柴姓を与えられた。
水戸城や、鹿島郡及び行方郡に散在していた国人衆を謀殺し、常陸国全域を支配する
1592年…唐入りのため、5,000人の兵を出兵させる。
1594年…秀吉から伏見城の普請を命じられ、伏見城下に屋敷を与えられる。
1597年…佐竹氏に改易の処分が下されるが、石田三成の取りなしによって免れる。
1599年…豊臣家の武力派が石田三成領の屋敷を襲撃するが、義宣が三成を女輿に乗せて脱出させ、宇喜多秀家の屋敷に逃れさせた
1600年…関が原合戦では中立を保つ。
1602年…関が原合戦の処罰として出羽国への転減封を命じられる。
1614年…大阪冬の陣で活躍する。
1633年…江戸神田屋敷で死去する。

出生と義宣の正室

1570年、「鬼義重」と呼ばれた佐竹義重の嫡男として生まれる。この頃佐竹家は那須氏を攻めており、義宣が3歳の頃、那須家と和睦した、こと和睦の条件が那須家の娘を義宣の嫁に迎える事だった。

初 陣

義宣の初陣は1585年4月に宇都宮氏と共同して壬生氏を攻めた戦と言われている。しかし、当時の壬生氏は佐竹氏の傘下で、1585年の暮れに北条氏に寝返っていることから、実際の初陣は1586年4月と考えられている。

佐竹義宣 所用 黒塗紺糸縅具足

「人色皮包仏胴黒糸威具足」と呼ばれ兜の立物は熊毛製、胴は鉄を肌色の洗皮で包んだ特徴的な作りである「毛虫の鎧」の別名がある

家督相続と伊達家との対立

義宣が義重から家督を相続したのは一般的には1586年と言われているが定かではないが1586年~1589年の間に家督は相続されている。
家督を相続した義宣は下野に軍を進めたりと多くの戦場へ出陣し活躍する。また、蘆名家の家督争いに介入し、弟・又は次男の義広が蘆名家の養子になったことから、伊達政宗と対立する。その後、義宣は南奥州の諸大名と連合軍を形成し伊達政宗と戦うが圧倒的優位にありながらも、連合軍の連携がとれず、政宗に勝利することもできずに岩城常隆の調停で和睦することを余儀なくされた(郡山合戦)
その後、 義宣は南奥州の白河(結城)氏等に起請文を交わすが、南奥州の諸国は伊達家に屈する。義宣は豊臣秀吉に訴えでて、秀吉は政宗に兵を引くよう命じるとともに、上杉景勝に佐竹義宣の援助を行うように命じたという。
この時佐竹家は南から北条家、北から伊達家という2大勢力に挟まれ、滅亡の危機に立たされた。

小田原征伐

伊達家が佐竹領に侵攻する動きがあるなか、豊臣秀吉の小田原征伐が始まった。義宣は秀吉に従軍する事を決意し小田原征伐に参陣・従軍し、石田三成の忍城攻めに加わった。忍城攻めでは、忍城水攻めの際の堤防構築に従事した。
その後、奥州仕置にも従ったことから、義重は秀吉から常陸国54万石の支配権を認められ、秀吉に従うことで佐竹家を発展へと導くことになる。
また、義宣は小田原征伐以前から豊臣秀吉と音信を通じ、石田三成及び上杉景勝と親交を結んでいたと言われている。

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