生涯をかけて信長に抵抗した六角家17代当主

六角 義定ろっかく よしさだ

ポイント

  • 六角義賢の子で六角家17代当主(事実上最後の当主)
  • 六角家滅亡後も信長に抵抗する

概 要

六角家17代当主で最後の当主。六角義賢の次男。始めは大叔父・大原高保の大原家を継いだが、兄・義治が蒲生野の戦いで浅井家に敗れ責任をとって家督を退任したため代わりに六角家の家督を継いだ。その後信長の上洛軍に破れ所領を失なったが最後まで信長を倒す事を諦めなかった。

基本情報

誕 生1547年
没 年1620年(享年:74歳)
通 称佐々木次郎左衛門尉
別 名佐々木高定、佐々木賢永、佐々木高盛
氏 族六角家
官 位中務大輔
家族構成
六角義賢
畠山義総の娘
兄 弟 義治義定畠山義綱の正室
高賢、高和、青地等定など
同年代の武将
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略 歴

1547年 1歳  六角義賢の次男として誕生
1562年 16歳  兄・義治が家督を継ぐ
1566年 20歳  蒲生野の戦いで浅井家に大敗
1567年 21歳  家督を継ぐ
1568年 22歳  信長が上洛を開始
観音寺城の戦いで信長に破れ甲賀に逃れる
1582年 36歳  反信長の勢力として甲斐に寄宿
1620年 68歳  死去

家督相続

1547年 、南近江国の戦国大名・六角義賢の子として誕生した。
六角家の家督は兄・義治が継ぐため、義定は始め大叔父・大原高保の跡を継ぎ、大原氏を名乗った。

1566年に北近江の浅井長政が六角領へ侵攻(蒲生野の戦い)、この戦いで六角義賢、義治の親子は敗れた。そのため、翌年の1567年、義治は蒲生野の戦いの責任を負い退任、代わりに義定が家督を継ぐこととなった。(諸説有り)

大名としての六角家の滅亡

織田信長が足利義昭を擁立するため上洛を計画すると、六角家に援軍を要請した。しかし、これを六角家は拒否したため信長は上洛軍を南近江六角領に侵攻させ。
義定は父や兄と籠城するなど抵抗するが、六角氏の観音寺城は落城。父や兄と共に甲賀の山中に逃亡し大名としての六角家は滅亡した。

その後は、元亀騒乱などの対織田信長への抗戦運動に活躍し、1582年の織田氏による甲州征伐では、織田信清土岐頼芸などの反信長勢力と共に甲斐国内に寄宿していた。

その後の動向については不明だが、1620年に死去したといわれている。