那須七騎の筆頭的人物として家中最大の勢力を築き主家を支える

大関 高増なす すけはる

大関高増 肖像画

  ポイント

  • 大田原資清の長男
  • 那須資胤と対立するが、後に和睦する
  • 那須七騎の筆頭人物として主家を支える

誕生・死没

  • 誕生:1527年?
  • 死没:1598年
  • 享年:72歳

名 前

  • 熊満(幼名)
  • 安碩斎未庵(号)

所 属

官職・役職

  • 官位:従五位下・右衛門佐
  • 官位:美作守

親 族

略 歴

1527年…大田原資清の長男として誕生する
1542年…大関宗増の養嗣子となる
大関家の家督を継いで白旗城主となる
1549年…喜連川五月女坂の戦いで初陣して戦功を挙げる
1551年…従五位下・右衛門佐に叙任(後に美作守になる)
1560年…小田倉の戦いの苦戦をきっかけに主家と対立
1563年…佐竹氏と手結び主家(資胤)と争う
1566年…佐竹氏・宇都宮氏と手を結び資胤を攻撃
1568年…高増が降伏する形で和睦する
1576年…居城を白旗城から黒羽城に移す
1578年…家督を次男・清増に譲る(実権は握ったまま)
1585年…薄葉ヶ原の戦いで大関勢は多くの首級を挙げる
千本資俊・資政親子を謀殺する
1585年…薄葉ヶ原の戦いで大関勢は多くの首級を挙げる
1590年…小田原征伐に参陣し13,000石を領する大名となった

概 要

那須七党の一。大田原資清の子。大関・大田原・福原家を率い、伊王野・蘆野家と結び、大伯父として主君・資晴を後見するなど家中最大の勢力を築き上げた。

大関の家督相続

高増は実父は大田原資清の長男としてされており1527年に生まれたとされる。
1542年頃、実父・資清の政略(大田原資清が宗増の嫡男・増次に奇襲を掛け増次は敗死、宗増は資清の長男・大関高増を養嗣子として迎えることを余儀なくされた)で大関宗増の養嗣子となり、家督を継いで白旗城主となった。
1549年にはの喜連川五月女坂の戦いで初陣して戦功を挙げた。また、1551年に従五位下・右衛門佐に叙任。後に美作守になった。

主家・那須資胤との抗争

永禄3年(1560年)、小田倉の戦いでは、白河結城氏・蘆名氏の侵攻に際し那須資胤を援け、防戦に努めたが、戦後、合戦に苦戦した事を非難され、主家と対立。(高増の動きの遅さが原因で資胤は傷を負うほど追い込まれた)
高増は大田原氏ら上那須衆と共に佐竹氏に内通した。以後、上那須衆と那須氏の間で戦いが繰り返され、1566年には佐竹氏・下野宇都宮氏も加わり資胤を攻撃。しかし資胤の奮戦に退けられ、翌年、佐竹義重と共に大崖山で那須氏と戦うが、再び退けられた。

那須氏重臣として

資胤との戦いにいずれも敗れた大関氏・大田原氏は、1568年、資胤と和睦。
高増は剃髪し主家に反抗した罪を謝した。その後は那須七騎の筆頭的な人物として主家を支え、那須資晴の代には那須氏における最有力者として権勢を誇った。
1576年、居城を白旗城から黒羽城に移し、1578年には次男・清増に家督を譲っている(実権は握り続けた)

1585年、主君・那須資晴と共に薄葉ヶ原の戦いにて塩谷義綱・宇都宮国綱連合軍を打ち破り、大関勢は多くの首級を挙げた。
同年12月には主君・資晴の了承を得て千本資俊・資政親子を謀殺し、千本氏の遺領の一部を弟である福原資孝・大田原綱清らと分割し、実家である茂木氏に戻されていた資俊の養子・千本義隆に千本氏の家督を継がせた。
また、同年末から翌天正14年(1586年)1月にかけて、こちらも資晴の了承を得て、次男・清増を伊王野資信の所領に攻めこませ、清増が勝利したことにより講和の条件として伊王野領の東郷を割譲させるなど、専断的な行動も目立った。

独立大名として

1590年の小田原征伐では、主家の那須氏が遅参し、改易されたのに対し、いち早く参陣し10,000石の所領を安堵され、また長男・晴増にも3,000石が与えられた事によって大関氏は13,000石を領する大名となった。

没年月日は寛永諸家系図伝では慶長5年(1600年)1月14日となっていたが、寛政重修諸家譜では慶長3年(1598年)1月14日に訂正されている。享年72(寛政重修諸家譜)

参考資料(引用元)

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