小浜城主。槍術に優れた伊達家家臣

大内 定綱おおうち さだつな

居城:小浜城

概 要

陸奥の豪族。塩松城城主。伊達政宗に帰属するが、後に敵対。その後、政宗の攻撃を受けて敗北し以後は伊達家に仕えた。戦上手として名高く、調略にも長け、武術においては十文字槍を得意とした。

 ポイント

  • 陸奥の豪族
  • 乗込大学の異名をとる
  • 主家滅亡後は伊達家に仕える

誕生・死没

  • 誕生:1545年
  • 死没:1610年
  • 享年:65歳

名 前

  • 顕徳(初名)
  • 太郎左衛門(別名)
  • 勘解由左衛門(別名)
  • 廉也斎(別名)

官 位

  • 備前守

略 歴


1545年 0歳  大内義綱の嫡男として誕生
1568年 23歳  石橋氏を追放し田村家に仕える
1579年 34歳  田村氏と手切れ
蘆名家に属す
1582年 37歳  伊達傘下に降る
1583年 38歳  父・義綱が死没
1584年 39歳  政宗と敵対
1585年 40歳  政宗に攻撃され蘆名家に降る
郡山合戦に破れ再び伊達家に降る
1585年 40歳  政宗に攻撃され蘆名家に降る
郡山合戦に破れ再び伊達家に降る
1589年 44歳  摺上原の戦いで活躍
1590年 45歳  葛西大崎一揆に参陣
1591年 46歳  胆沢郡におよそ1千石の所領を与えられ、前沢城主となる
1610年 55歳  死没

田村家時代

戦国時代初頭(父・義綱の代)、大内氏は、田村氏の内応工作に応じて主君・石橋尚義を追放し、塩松領主となって田村氏の旗下に属してた。
そのため定綱の初名は田村氏の偏諱を得て顕徳と名乗っていた。

独 立

父・義綱が死没し、家督を継いだ定綱は、田村氏からの独立を考えるようになり、これを知った二本松城主・二本松義継田村清顕と定綱の仲介を勧めるが決裂、定綱は田村氏との手切れを宣言し名前を定綱と改名し田村家から独立した。

伊達傘下

1582年頃になると大内家は伊達傘下に入り、以降は対相馬戦に度々従軍する。1583年には宿敵・田村家の百目木城主・石川光昌を攻撃、田村氏と対立していた蘆名盛隆の支援を受けて田村清顕を破った。

伊達家との決別

1584年に伊達輝宗の子・政宗(正室は大内家の宿敵・田村清顕の娘・愛姫)が伊達家の家督を継ぐと、政宗は田村氏に加担する方針に転換した。しかし政宗も蘆名盛隆との戦いを臨んではおらず、定綱への攻撃は行われなかった。
しかし、蘆名家当主・蘆名盛隆が暗殺され、蘆名家内部で佐竹氏の影響が強まると、伊達氏と蘆名氏の同盟関係は終結した。
すると、定綱は突然米沢城の政宗を訪問して伊達氏に出仕して妻子を米沢に住まわせたいと申し出た。政宗はこれは受け入れるが、義綱が塩松に戻るとこの約束を破棄したため、激怒した政宗は田村氏に加担して定綱の攻撃を決意した。一方、隠居した輝宗は秘かに定綱に政宗への謝罪を求めたが、定綱はこれに応じなかった。こうして大内家と伊達家は決別した。

伊達家との戦い

1585年5月、政宗は定綱を支援していることを理由に蘆名家を攻撃し、続いて定綱を攻撃し、定綱は小浜城を放棄して二本松へ逃れ、会津の蘆名氏を頼った。
1588年、郡山合戦の際には蘆名氏の部将として苗代田城を攻略するが、伊達成実の誘いに応じて弟の片平親綱と共に伊達氏の本拠地に近い伊達郡や長井郡に所領を与えられ伊達家に帰参した。
これに激怒した蘆名義広は人質として捕らえていた定綱・親綱兄弟の母を殺さしている。

戦国末期

伊達家へと帰参した定綱は「摺上原の戦い」、「葛西大崎一揆鎮圧」、「文禄・慶長の役」にも従軍して功績を立てた。1591年、政宗が岩出山城に転封されると、胆沢郡におよそ10,000石の所領を与えられ、前沢城主となった。関ヶ原の戦いの折には京都伊達屋敷の留守居役を務めた。子の重綱の代にはこれらの功績により、一族の家格を与えられた。

槍名人

定綱自身は戦上手として名高く、調略にも長け、武術においては十文字槍を得物とし、これを用いた槍術にも優れていたという。