ポイント
- 扇谷上杉家の筆頭家老
- 文武に優れ長尾景仲とともに「関東不双の知恵者」と称された
- 歌道にも優れ数々の歌が「河越千句」として評価を受けている
- 河越城・江戸城・岩槻城を築く
誕生・死没
- 誕生:1411年
- 死没:1488年
- 享年:77歳
- 墓所:龍穏寺【埼玉県越生町】
同年代の人物
- 大友親繁、相良長続、斎藤妙椿
名 前
- 源六郎(通称)
- 道真(法名)
官位・幕職
- 左衛門大夫
- 備中守
- 相模守護代
略 歴
1413年 | 0歳 | 太田資房の嫡男として誕生 |
1439年 | 26歳 | 永享の乱(足利持氏VS上杉憲実)が勃発 鎌倉公方が滅亡 |
1447年 | 34歳 | 足利成氏により鎌倉公方が再興 |
1450年 | 37歳 | 江ノ島合戦に参陣 |
1455年 | 42歳 | 享徳の乱勃発 分倍河原の戦いで足利成氏軍に敗北 |
1456年 | 43歳 | 家督を嫡男・資長(道灌)に譲る |
1457年 | 44歳 | 道灌と共に河越・岩槻・江戸城を築城 |
1467年 | 54歳 | 主君・上杉持朝が死去 |
1473年 | 61歳 | 主君・上杉政真が戦死 |
1477年 | 65歳 | 長尾景春の乱が勃発 |
1481年 | 69歳 | 道灌が長尾景春の乱を平定 |
1482年 | 70歳 | 享徳の乱が終結 |
1486年 | 74歳 | 嫡男・道灌が主君・上杉定正によって暗殺される |
1488年 | 76歳 | 嫡男・道灌が主君・上杉定正によって暗殺される |
概 要
扇谷上杉家臣。相模守護代、扇谷上杉家の家宰を務めた。文武に優れた武将で長尾景仲とともに「関東不双の案者(知恵者)」と称された。太田道灌の父にあたり、親子で河越・江戸・岩槻(諸説あり)城を築いたとされる。
誕 生
1411年、扇谷上杉家の家臣・太田資房の嫡男として誕生する。
太田家は代々、扇谷上杉家の家宰(筆頭家臣)と共に相模守護代を務めた名門で、資清も青年の頃から扇谷上杉家の家臣として仕えた。当時の家宰は、領主に代わって領地の運営を任されたりその権限は領主とほぼ変わらなかったとつたえられている。
永享の乱
1439年、鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実(山内上杉家)が対立すると、資清の主君・扇谷上杉家は関東管領・山内上杉家に味方し足利持氏を攻めた(永享の乱)。資清は持氏軍の残党「一色氏」を討つなどの活躍をみせた。
扇谷上杉家の活躍もあり、この戦いは上杉家(幕府)の勝利に終わり、敗れた足利持氏は自害し、鎌倉公方は滅亡することになった。
「関東不双の案者(知恵者)」
1447年、上杉家や関東諸将の願いにより幕府から鎌倉公方再興が許され、持氏の遺児・足利成氏が鎌倉公方に迎えられ、山内家当主の上杉憲忠が関東管領に就任した。しかし、憲忠が若年だったために、山内家家宰で資清の義父にあたる長尾景仲がこれを補佐した。
一方、扇谷家も当主・上杉持朝が、隠居して家督を嫡男の顕房に譲った。顕房も若年だったために資清がこれを補佐した。
そのため両上杉家を支える景仲と資清は「関東不双の案者(知恵者)」と称された。
享徳の乱
江ノ島合戦
鎌倉公方を再興した足利成氏だったが、「永享の乱」で父を殺した憲実の子の憲忠を憎み次第に両者は対立するようになった。
1450年、足利成氏が「長尾家発祥の地」を強引に横領したことに我慢の限界を超えた長尾景仲は太田資清(道真)と共には鎌倉の成氏の御所を不意に襲った。
成氏は江の島へ逃れ、小山氏、千葉氏、宇都宮氏らの味方を得て反撃し、由比ヶ浜で合戦になった。仲介が入って両者は和睦したが、両者の溝は埋まらずにいた。
享徳の乱勃発
1454年12月、成氏は憲忠を暗殺してしまった。景仲は憲忠の弟・房顕を山内上杉家当主に迎えて足利成氏との全面戦争に臨んだ。(享徳の乱)
1455年、上杉方は反撃に出て武蔵分倍河原で成氏と戦うが大敗を喫し、資清の当主・扇谷上杉顕房が戦死してしまう。
道真は顕房の子の政真を家督に立てるが、幼児にすぎず、先代の持朝が家督に復帰することになった。
その後、足利成氏は鎌倉を幕府軍に占拠されたため、拠点を下総古河城に移し古河公方と呼ばれるようになり関東各地で両上杉軍と争った。
太田家の活躍
享徳の乱の最中、1456年、資清は嫡男・資長(太田道灌)に家督を譲った。しかし、隠居はせず実権は持ち続けていた。
さらに資清・資長親子は古河公方との戦いのために、1457年頃にかけて河越城(埼玉県川越市)、岩槻城(埼玉県さいたま市)、そして江戸城(東京都千代田区)を築いた(岩槻城については、道真・資長父子でなく成田正等による築城説が今は主流である)。
資長が江戸城を居城としたのに対して、資清は主に扇谷家の本拠となった河越城を守り、主君・持朝を補佐していた。
1458年、8代将軍足利義政の異母兄政知が関東に下向、伊豆に留まり、堀越公方と称された。
しかし、政知は持朝と対立、1461年に持朝の相模守護活動が停止され、翌年に持朝謀反の噂が流れ、政知の執事渋川義鏡の讒言によって扇谷家重臣の三浦時高・大森氏頼・千葉実胤らが隠遁した。道真もこの政争に巻き込まれ、寛正2年に隠居したとされている(後に幕府の調停で両者は和解、義鏡は失脚)。
主君・持朝の死
1467年、資清が長年仕えた上杉持朝が河越で死去した。家督は持朝の孫・政真が継ぎ、資清は政真に従って武蔵五十子陣(埼玉県本庄市)で古河公方と対陣した。
1473年、古河公方の軍勢が五十子陣に攻めかかり、政真が討ち死にしてしまう。資長ら老臣達の評定によって政真の叔父・定正が家督に迎えられた。
長尾景春の乱
1477年、山内家重臣の長尾景春(景仲の孫)が古河公方と結んで反乱を起こして、五十子陣を急襲した。上杉軍は大敗を喫し、五十子を守っていた山内家当主上杉顕定、定正、道真は上野へ敗走した。
関東の多くの武将が景春に呼応して、挙兵し両上杉家は危機に立たされた
しかし、資清の子の道灌(資長の法名)が関東南部から北上し途中の石神井城の豊島氏をはじめ各地の景春方を次々と打ち破った。そのころ資清は上野阿内城(群馬県前橋市)にあって顕定、定正を補佐していた。
乱の終結
分断していた道灌と顕定、定正は合流することに成功。用土原の戦い(埼玉県寄居)で大勝して景春を封じ込めたが、古河公方が本格的に参戦して乱は長期化の様子をみせたが、1480年ごろ長年の戦に疲労した古河公方は和議を望むが、景春はなおも戦うとした。道灌は景春方を次々と打ち破り、乱の平定に成功した。
そして享徳の乱から約30年後1482年、古河公方と両上杉家との間で和議が成立して、享徳の乱は終結した。
晩 年
享徳の乱後、高齢となった資清は自得軒(埼玉県越生町)に隠居するようになった。
一方嫡男・道灌は「享徳の乱」での活躍により扇谷上杉家の勢力は高まり、道灌の声望も関東管領・顕定や主君・定正を超える勢いであった。
顕定、定正はこれに危機感を抱き、家中には道灌が謀反を企てていると中傷する者があり、定正も疑うようになるが、資清・道灌父子は何ら弁明しなかった。
そのため、1486年6月18日道灌は定正の居館である糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれ暗殺された。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。
資清はその2年後の1488年8月3日に越生で死去した。法名は自得院殿実慶道真庵主。墓所は越生の龍穏寺にある。
逸 話
歌道の名人
資清は若年より文武に励んだ優れた武将で、特に『歌道』は、後に有名になる道灌よりその実力は上であったといわれている。居城であった河越城で連歌会を行うと、この時の歌の数々は『河越千句』として現在でも高い評価を得ている。
道灌が暗殺される1ヶ月前にも道灌は詩人万里集九を伴って道真の隠居所を訪ねて詩会を楽しんだとされている。
死亡年
資清の死亡年にはいくつかの説がある「太田家記」などには1492年に死去とあるが、より信頼性の高い「本土寺過去帳」から、これは誤りと考えられる(黒田基樹駒澤大学非常勤講師の説による)。