ポイント
- 伊達稙宗の次男、婿養子として大崎家に入る
- 伊達家「天分の乱」で、晴宗側に付いた義弟・義直に破れ追放される
誕生・死没
- 誕生:1526年
- 死没:1550年
- 享年:25歳
名 前
- 小僧丸(幼名)
親 族
略 歴
1526年… | 伊達稙宗の次男として生まれる | 1536年… | 大崎義兼(大崎義直の兄)の娘を正室に向かえ、大崎家に養子として入る。 |
1541年… | 大崎氏内で内乱が起こる (この年には家督を相続しており、内乱はこれに反発するものだったか?) |
1542年… | 伊達家で「天分の乱」発生。義宣は実父の稙宗側に付き、晴宗側に付いた養父・義直とその子大崎義隆と対立する。 |
1544年… | 大崎領内の東端にあたる不動堂を拠点とし、大崎義直の軍と対陣した |
1547年… | 大崎義直の軍と攻められる(さらに1548年にも攻められる) |
1548年… | 「天分の乱」が終結。 |
1550年… | 弟の葛西晴清を頼って逃げる途中、葛西領内の桃生郡辻堂で義直の討手にかかって殺される。 |
生立ちと大崎家への養嗣子
義宣は伊達稙宗の次男として生まれる。この頃の伊達家奥羽の中で随一の実力をもって周辺諸氏を服属させつつあった。
一方、大崎家は兄の代わりに家督を継いだ大崎義直が、国内の内乱に苦しんでおり名門と言われていた大崎家の面影はなかった。
大崎義直は自力で内乱を収束できず、伊達稙宗に援軍を要請した(天文の内乱)。内乱を収束する訳だが。その代償として、稙宗の子・義宣が兄・高兼の娘(梅香姫)を娶る形で養子として送り込まれ、大崎氏は伊達氏に従属した。こうして義宣は大崎家に養嗣子として入り、後に大崎家の11代当主として家督を継ぐ事になる。
天分の乱と義宣
1542年伊達家の「天分の乱」が勃発すると、義宣は父・稙宗側につきます。しかし、養父・大崎義直やその子大崎義隆が晴宗側に付いたため、両者は対立します。
義宣は大崎領から南に離れた北東部(大崎領内では東端)で不動堂を拠点とし、稙宗党をまとめ足場を築く活動を行っておりましたが、1544年と1547、48年に養父・大崎義直から幾度と攻撃を受け、大崎領の中で義宣はほとんど足場を築けなかったとされています。
義宣の最後
伊達家の「天分の乱」が晴宗側の勝利により終焉すると、大崎家は家督を義直の実子・義隆が継ぎ、稙宗の後ろ盾が無くなった義宣は居場所が無くなり、自分と同様伊達氏から葛西氏の継嗣に入った実弟の葛西晴清を頼って葛西家に向かいます。しかし、葛西領内の桃生郡辻堂で義直の討手にかかって暗殺された伝えられています。(病死という考えもある)。1550年、享年25歳の事でした。