ポイント
- 最上家臣
- 赤川の用水堰の工事を行う
- 一栗高春の反乱を鎮圧する
所 属
官職・役職
- 官位: 因幡守
1568年 | 1歳 | 誕 生 | 1602年 | 35歳 | 藤島城主、大宝寺城(後の鶴ヶ岡城)代に任じられる | 1607年 | 40歳 | 赤川の用水堰の工事に着手する | 1611年 | 44歳 | 立谷沢川の整備を義光に推奨する | 1614年 | 47歳 | 一栗高春の反乱を鎮圧 | 1622年 | 53歳 | 最上家が改易される 土井利勝に預けられる |
1624年 | 56歳 | 古河で没する |
最上家臣。因幡守と称す。赤川の水を引く工事を行うが、主家改易により土井利勝預かりとなり、工事は中断。後年、用水堰は完成し「因幡堰」と呼ばれた。
1602年、藤島六千五百石を給せられ、同時に藤島城主、大宝寺城(後の鶴ヶ岡城)代に任じられた。
1607年からは赤川の用水堰の工事に着手しており、完成したのは久正没後の元禄2年(1689年)であったが、久正の通称であった因幡守から取って因幡堰と名付けられた。
また、同僚の北楯利長が義光に立谷沢川の水を田川郡北辺の平野部に引く疏水の建設を願い出た際は、難工事が予想されたため反対意見も多かった中、久正の強い勧めもあって翌年着工している。
1614年の大坂冬の陣直前に、義光が亡くなり最上家親が家督を継ぐと、一栗高春がこれに反発、義光の三男・清水義親を擁立して反乱を起こした。
高春は鶴ケ岡城下の久正の邸にて亀ケ崎(酒田)城主の志村光惟と大山(尾浦)城主の下次右衛門を襲撃して殺害、添川楯に立て篭った。
久正はこれを追撃して鎮圧し高春を討ち取った。
1622年主家・最上氏が改易されると久正は土井利勝に預けられ、1624年に古河で没した。