三好家の当主として三好家畿内進出のきっかけを作った名将
三好 之長

三好之長(長輝)の肖像画(見性寺蔵)
概 要
三好家当主。三好長之の子で三好家の最大勢力を築いた長慶の大祖父。応仁の乱、明応の政変で活躍し三好家の畿内進出のきっかけを築いた
ポイント
- 三好家当主で長慶の大祖父
- 応仁の乱、明応の政変で細川政元に従い活躍
- 三好家が畿内へ進出するきっかけを作った
誕生・死没
- 誕生:1458年
- 死没:1520年
- 享年:63歳
- 徳島県板野郡藍住町勝瑞の見性寺
名 前
- 長輝(別名)
- 喜雲(法名)
- 主膳正、筑前守(通称)
- 喜雲道悦、節開正忠(戒名)
主君
- 細川成之→政之→政元→澄元
氏 族
略 歴
1458年 | 0歳 | 三好家の当主・三好長之の嫡男として誕生 |
1467年 | 9歳 | 応仁の乱が勃発 主君・阿波守護家の讃州細川成之と共に京に出陣 |
1471年 | 13歳 | 讃州家に反旗を翻すが降伏する |
1485年 | 27歳 | 京都にて一揆を煽動し京にて名が知られる |
1506年 | 48歳 | 細川澄元の先陣として京に入京 赤沢朝経の支援のため大和に出兵 |
1507年 | 49歳 | 細川政元・細川澄元の一色家攻めに参陣 細川政元が暗殺される 細川澄之に襲撃され澄元と供に近江に逃亡 細川高国が澄之を打ち取る |
1508年 | 50歳 | 足利義稙を擁立し大内義興が上洛これに細川高国も加わる 澄元と之長が京より脱出 |
1509年 | 51歳 | 京奪還のため進軍するが「如意ヶ嶽の戦い」にて高国・義興の軍に敗れる |
1511年 | 53歳 | 「船岡山合戦」で高国に破れ澄元が高国に敗れる |
1517年 | 59歳 | 淡路に侵攻し高国方に寝返った細川尚春を破り淡路を制圧する |
1520年 | 62歳 | 高国に破れ死去 |
出生と元服
阿波の有力国侍、三好長之の嫡男として誕生
1458年、之長は細川氏分家・讃州家(阿波守護家)の細川家の家臣であった三好長之の嫡男として誕生した。
名前の「之長」は主君であった細川成之から偏諱を受けたものである。
応仁の乱
応仁の乱で初陣を飾る
1467年、応仁の乱が勃発すると之長は成之に従い細川京兆家の細川勝元を助けるために京都に出陣し、初陣を飾った。
一揆の首謀者として活躍し京で名を馳せる
応仁の乱で京が荒れると之長は民衆の気持ちを煽り、一揆を起こした。
しかし、これは細川政元に鎮圧された。この出来事で之長は処罰されてもおかしくなかったが、成之・政之父子から貴重な人材と重要され、処罰することによって軍事力の低下を招く恐れがあったため之長は処罰されることはなかった。
この一連の出来事がきっかけで之長名は京都で一躍有名になった。
細川京兆家の家臣となる
細川政元の養子となった細川澄元に従い細川京極家の家臣となる
1488年に之長の主君・細川政之が死去した。之長はその弟の細川義春に仕えるが、その後すぐに義春も死去。結局、阿波細川家は細川之持が家督を継いだ。
また、之持の弟・細川澄元はの細川政元(細川京極家)の養子に迎えられ、之長は澄元の補佐とし仕え京に入洛し、阿波家と京兆家に両属する形となった。
細川京極家のなかで頭角を現す
京に入京して以降、之長は政元の命令を受けて数多くの戦いに参加した。また、行政面でも澄元の執事として年貢徴収の紛争問題の解決に貢献したりと次第に実力をつけだした。
だが、周囲はこれを妬み次第に、淡路守護・細川尚春や政元の養子・澄之の執事で山城守護代・香西元長との権力争いが生じた。
永正の錯乱
細川政元が暗殺される
主君・細川政元の後継者問題が起きると之長は細川澄元を支持した。
1507年、政元が香西元長や薬師寺長忠によって暗殺されると、澄元と之長も香西元長らによって襲撃された。
之長は澄元を守り近江を経由し、甲賀郡の山中為俊を頼って落ち延びた。
澄之の死
政元を討った元長と長忠は澄之を京兆家の当主に擁立したが、細川一族の細川高国や尚春、細川政賢(細川典厩家)らの反撃を受けて全員討たれた。
その翌日に之長は京に戻り、澄元とともに11代将軍・足利義澄を擁立して権勢を掌握した。
また、この時、京兆家当主となった澄元より之長は政治を委任された。
阿波細川家の発言力の拡大
幕府の実権を掌握した之長は澄元の執事職を嫡男・長秀に譲り剃髪して「喜雲」と称た。
しかし、之長を筆頭とする阿波細川家出身の澄元側近が京兆家の中で発言力を持つことに畿内・讃岐出身の京兆家内衆(家臣)や細川氏の一門の間で反発が高まっていった。
両細川の乱
クーデターを起こした高国により之長と澄元は京から逃げる
政元の死や京の内乱をチャンスとみた足利義植(明応の政変により将軍職を追われた10代将軍)は周防の大内義興に上洛を求めた。これに応えた義興は1508年に上洛を開始した。
さらに澄元と不仲になっていた高国も義興に呼応し挙兵、勝ち目がないとしった之長は澄元を連れて甲賀に逃亡、さらに将軍・義澄も近江へ逃亡し、高国が政権奪取を果たし、管領と京兆家当主に任じられた。
如意ヶ嶽の戦い
1509年、之長は京を奪還するため3000の兵力で進軍、山城と近江の境目の東山の如意ヶ嶽に布陣した、しかし、高国や義興の反撃を受けて敗北し、嫡男・長秀と次男・頼澄は北畠材親>に攻められて自殺した(如意ヶ嶽の戦い)。
この敗戦で之長は澄元と共に阿波に帰国、之長は阿波で兵力を養い、近隣に助けを求めて反撃の準備を進め、近江に亡命していた義澄も大友親治らに書状を送って活発な動きをしていた。
深井城の合戦と芦屋河原の合戦
如意ヶ嶽の戦いから2年後、阿波で戦力を補充した澄元は細川一族の政賢と尚春、さらに播磨の赤松義村を味方につけ義澄と連携して堺に上陸。高国方の和泉深井城を攻略した(深井城の合戦)。
その後、赤松軍と合流した細川尚春軍が高国の家臣である瓦林正頼が守る摂津鷹尾城を攻め落とした(芦屋河原の合戦)。その結果、澄元は京都を奪取し義興・高国らは丹波へ逃れた。
船岡山合戦
京都を奪われた高国だったが、その数日後には丹波から京都へ進出し北部の船岡山で高国方と澄元方は決戦となった。
兵力差は高国方の圧倒的有利でさらに決戦の10日前には澄元方の将・義澄が死去したこともあり大内軍を主力とした高国方の圧勝によって政賢は戦死し澄元は摂津に敗走した(船岡山合戦)
戦後、澄元の祖父・成之が死去、さらに成之の跡を継いでいた澄元の兄・之持までもが死去した。また、高国は降伏した細川尚春父子に阿波を与える意向を示し、これにより之長は澄元と共に阿波国内の安定に務めることになり7年間は平穏が保たれることになる。
京都奪還と最後
高国に降伏した細川尚春を殺害
1517年、之長は阿波・讃岐の将兵を引き連れ路に侵攻して細川尚春を堺に追放。さらに1518年、大内義興が周防に帰国した弱体化した高国政権の隙をみて尚春を殺害し淡路の直接支配及び播磨灘・瀬戸内海など周辺海域を手中に治めた。
田中城の戦い
1519年、池田信正が澄元に味方したため、高国方の瓦林正頼が攻撃をかけたが敗れた。これを知った之長は澄元と共にに兵庫に上陸し、正頼が籠もる摂津越水城を包囲した陥落させた(田中城の戦い)。
京都奪還
1520年、澄元・之長が田中城を攻略すると、京都では治安が悪化し高国軍は退却し近江に避難したたため、之長は9年ぶりに上洛を果たした。また将軍・義植は高国と対立し澄元と内通していたため京都にとどまった。
之長は摂津伊丹城で待機していた澄元の代わりに京都で政務や高国方の摘発を行い、義稙から京兆家の家督相続を許された澄元の代理として感謝された。
最 期
京都を奪還し、絶頂期を迎えていた澄元と之長だったが、近江に逃走していた高国が六角定頼や蒲生定秀さらに朝倉、土岐氏など2~5万の大軍を率いて上洛してきた。 これに対し、之長の軍はわずか4~5000人ほどだったため、等持院の東南で行なわれた「等持院の戦い」で大敗、之長は高国軍に捕まり斬首された。また、子の芥川長光、三好長則、甥の新五郎らも高国軍に捕まり斬首された。
その後の細川、三好家
之長の敗死を知った澄元は阿波へ戻ったが、病身であったため直後に亡くなり細川家は子の晴元が継いだ。 また、三好氏の家督は之長の孫で長秀の長男である元長が継承、元長は晴元を擁立しながら高国打倒を目指し阿波で力を蓄えていった。
人 物
太っていて捕まった?
等持院の戦いに大敗した時に逃亡せずに捕縛されたのは、京都の医師である半井保房の記録である『聾盲記』によると之長が肥満して10歩も歩けなかったためという。
京一の嫌われもの
之長は成り上がりの地方の権力者として京都の人々には嫌われており、『大山寺縁起』には建設工事で嫌々働く人々が描かれ、『 細川大心院記』や『 瓦林政頼記』には当時の之長を風刺する落首がいくつも残されている。