細川高国方につき兄・之長と対立する

三好 長尚みよし ながひさ

概 要

三好長之の次男で、三好之長の弟。
細川高国の被官として活躍し丹波国山国荘の代官となる。
細川澄元と細川高国が争うと高国方につき兄・之長と対立する。

  ポイント

  • 三好長之の次男で三好之長の弟
  • 細川高国に従い摂津国長洲荘の代官となる

誕生・死没

  • 誕生:???年
  • 死没:1540年
  • 享年:?歳

名 前

  • 神五郎(通称)
  • 越後守(受領名)

主君

  • 細川澄元→細川高国→細川晴元

氏 族

親 族

三好長之
兄 弟 之長長尚一秀、家長
長久長家政長

略 歴

1381年 ?歳   細川澄元に従い四国から上陸し大和に侵攻
1511年 ?歳   船山合戦に参陣
1513年 ?歳   細川高国の被官として丹波国山国荘の代官となる
1526年 ?歳   摂津国長洲荘の代官に任じられる
1540年 ?歳   死 去

畿内進出

細川澄元に従い兄・之長と共に畿内に進出

1507年に長尚は兄・三好之長と共に主君・細川澄元に従い四国から上洛し、大和国へ侵攻、この結果、三好家は畿内へ進出することになる。

細川高国の被官として

船岡山合戦の活躍により丹波国山国荘の代官となる

詳細は不明だが、長尚はそれまで仕えた細川澄元から澄元の対立関係である細川高国方へ寝返っている。
1511年に勃発した澄元VS高国の「船岡山合戦」では高国方として兄である之長を澄元方から高国方へと寝返らせる仲介を務めた。
しかい、寝返り工作は失敗したがその活躍により長尚は丹波国山国荘の代官となっている。

また、1526年には摂津国長洲荘の代官に任じられている。

最 後

本願寺証如の日記『天文日記』によると長尚は堺に隠居しており家督を政長に譲り、1540年に死亡したことがわかっている。

参考資料(引用元)