細川政元に仕え重用されたが細川高国との戦いに破れ自害する
三好 長秀
概 要
三好之長の子。元長の子。知勇に優れ細川政元に仕え重用されたが細川高国との「如意ヶ嶽の戦い」で敗れた後に北畠材親の攻撃を受けて自害に追い込まれた。
ポイント
- 三好之長の子で三好元長の父
- 知勇に優れ細川政元に重用される
- 細川高国との戦いに破れた後に北畠材親の攻撃を受け自害する
誕生・死没
- 誕生:1479年
- 死没:1509年
- 享年:31歳
主君
- 細川政元→細川澄元
氏 族
略 歴
1479年 | 0歳 | 三好之長の子として誕生する |
1507年 | 28歳 | 永正の錯乱により細川政元が暗殺される |
1509年 | 31歳 | 如意ヶ嶽の戦いで細川高国に破れる 北畠材親の攻撃を受け自害する |
誕生と細川家臣として
細川家の重臣・三好之長の子として誕生する
1479年、長秀は細川家の重臣であった、三好之長の子として誕生した。
長秀は智勇に優れた武将で、早くから細川政元に仕えて重用され、主君・細川政元の奇行(修験道や放浪)を父・之長と共になだめていた。
永正の錯乱
政元の後継者問題(政元には実子が無く、養子が3人もいた)では父と共に細川澄元を支持し、政元が細川澄之派の家臣によって暗殺される(永正の錯乱)と、父と共に澄之を討って澄元を擁立した。
この時、父が澄元と対立して剃髪したことから父に代わって澄元の執事になった
最 後
細川高国に破れ京から逃亡
澄之の討伐に成功した細川澄元だったが、同じく政元の養子であった細川高国が澄元の後継を認めず、大内義興と共に足利義稙を擁立して澄元に対抗した。 このため、長秀は父と共に高国・義興らと戦ったがこれに破れ京から敗走する。
京奪還の進軍をする
1509年、長秀は父・之長と共に京都を奪還するため京へ再侵攻を図るが「如意ヶ嶽の戦い」にて高国・義興らと戦うが敗れ、奪還は失敗に終わった。
之長は阿波に敗走し、長秀も伊勢山田に敗走したが、ここで高国と縁戚関係にあった北畠材親の攻撃を受けて弟の頼澄と共に自害に追い込まれた。享年31であった。