概 要
松平清定の長男。桜井松平家3代目。松平広忠に敗れ品野城を追われる。その後は三河一向一揆に加担し松平元康を苦しめた
ポイント
- 松平清定の長男。桜井松平家3代目
- 広畔畷の戦いで、松平広忠と戦うが敗れる品野城を追われる
- 三河一向一揆に加担し家康を苦しめる
目 次
誕生・死没
- 誕生:???年
- 死没:1563年
- 享年:?歳
名 前
- 監物(通称)
略 歴
1545年 | ?歳 | 松平広忠と戦うが敗れる(広畔畷の戦い) |
1546年 | ?歳 | 広忠に品野城を明け渡す |
1556年 | ?歳 | 三河国下和田(愛知県岡崎市下和田町)の領地を巡り東条松平家と争う |
1563年 | ?歳 | 三河一向一揆に加担する 死没 |
桜井松平家の誕生
☆ 祖父・信定が松平親房に婿養子にだされ桜井松平家となる
桜井松平家の祖は・松平長親の次男・松平信定(家次の祖父)
長親の死後、信定の兄である信忠が松平家の家督を継いだが信定は一族・家臣からの人望に乏しく、また大将としての器量もなかったため、家臣達からは三男・信定の家督継承を望む声が多かった。また、信定は父・長親からの期待も受けたともいわれる。
しかし、信定は叔父・松平親房(親忠の四男、入道宗安)の婿養子に出され、松平家の家督は信忠の子・清康が継いだ。
宗家跡目の候補から外された信定は、叔父の所領・三河国碧海郡桜井(安城市桜井)に桜井城を築いて居城とし、桜井松平家の祖となった。
生 涯
☆ 広忠との戦い
1545年、酒井忠尚、榊原長政らと共に家次は祖父の代から関係が悪化していた松平宗家・松平広忠と広畔畷で戦う(広畔畷の戦い)
しかし、この戦いで家次は大敗、居城の品野城を広忠に明け渡し、品野城には罪を許された忠尚が入った。また、その後家次は徳川家に仕えたとされる。
☆ 東条松平家との領地争い
1553年、三河国下和田(愛知県岡崎市下和田町)の領地を巡り、主君・今川義元に訴え、東条松平家の松平忠茂と争うが、1556年、家次の敗訴に終わる。
☆ 織田軍撃退
松平元康(徳川家康)の命で品野城に攻めてきた織田軍を撃退し、功績をあげた。 1563年、三河一向一揆が起きると一向衆側に味方した。