織田、豊臣家臣となり京極家を再興させた
京極 高次
ポイント
- 京極高清の嫡男
- 兄と家督争いを起こす
- 浅井家の台頭によって近江を離れ、足利家、織田家に仕える
概 要
高吉と京極マリアの子。織田家臣であったが、本能寺の変妻と妹の縁故により豊臣秀吉に仕え、近江大津6万石を領す。関ヶ原合戦では東軍に属し居城に籠城、西軍の一部を大津に足止めさせた。戦後は若狭国小浜藩の初代当主となった。
基本情報
| 誕 生 | 1563年 |
| 没 年 | 1609年 |
| 墓 所 | 滋賀県米原市の徳源院 |
| 幼 名 | 小法師 |
| 戒 名 | 泰雲寺殿徹宗道閑 泰雲寺殿前三品相公徹宗道閑大居士 |
| 官 位 | 従三位、参議 |
| 主 君 | 織田信長→明智光秀→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→ 秀忠 |
| 藩 | 近江大津藩→若狭小浜藩 |
| 氏 族 | 京極氏 |
| 家族構成 | |
| 父 | 京極高吉 |
| 母 | 京極マリア |
| 正室 | 初姫(浅井長政の娘) |
| 側室 | 山田氏、小倉氏 |
| 兄 弟 | 高次、高知、松の丸殿(武田元明の妻、後に豊臣秀吉側室)、娘(氏家行広室)、マグダレナ(朽木宣綱室) |
| 子 | 忠高、安毛高政 |
略 歴
| 1563年 | 1歳 | 京極高吉の嫡男として誕生 |
| 1570年 | 8歳 | 人質として織田信長のもとへ送られる |
| 1582年 | 20歳 | 本能寺の変で明智光秀側に付く 豊臣秀吉の追捕を受ける身となり、柴田勝家のもとへ逃れる |
| 1584年 | 22歳 | 秀吉に仕え近江国高島郡2,500石を与えられる |
| 1586年 | 24歳 | 5000千石に加増 九州平定で功をあげ大溝城と1万石に加増され大名となる |
| 1587年 | 25歳 | 浅井家の娘・初を正室とする |
| 1590年 | 28歳 | 小田原征伐の功により近江八幡山城2万8,000石となる |
| 1595年 | 33歳 | 近江大津城6万石へと加増される |
| 1600年 | 38歳 | 関ケ原の戦いで西軍を大津にて足止めさせる 関ケ原の功によって若狭一国8万5,000石へ加増転封するし小浜に入る |
| 1601年 | 39歳 | 近江国高島郡のうち7,100石が加増される。 |
| 1609年 | 47歳 | 近江国高島郡のうち7,100石が加増される。 |
織田家臣
1563年、京極家の当主・京極高吉と京極マリア(浅井久政の娘。浅井長政の姉)の長男として、浅井氏の居城である近江国の小谷城京極丸で生まれた。
1570年、父・高吉の人質として、岐阜の織田信長のもとへ送られ、高吉は信長に敵意のない事を証明するため近江に隠居した。その後、高次は元服しそのまま信長に仕えた。
1580年、本能寺の変が勃発し信長が光秀に討たれ山崎の戦いが起こると、高次は妹・竜子の婿(高次の義弟)・武田元明と共に明智光秀に通じ、長浜城に出陣した。このため豊臣秀吉の追捕を受ける身となり、高次の叔父であり義父でもある浅井長政の妻・市の再婚相手・柴田勝家
のもとに逃れたが、勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に滅ぼされた。
豊臣家の家臣として大名となる
秀吉に追われる身となっていた高次だったが側室となった妹・竜子の願いにより、高次は許されて秀吉に仕えることとなった。
1584年に近江国高島郡2,500石を与えられ、九州平定での功により、大溝城も与えられて大名となった。1587年には浅井家の娘で従兄弟である初(浅井長政の娘)を正室とした。
1590年には小田原征伐の功により近江八幡山城2万8,000石となり、翌年に豊臣秀次が関白に就任すると、従五位下・侍従に任ぜられる。
1595年には滋賀郡にある南西近江の要の城である近江大津城6万石へと加増され、従四位・左近衛少将にも任ぜられた。
関ケ原の戦い
秀吉が死去した後、1600年、徳川家康と石田三成の対立が深まっていた。
会津の上杉景勝を討つべく大坂を発った家康は、大津城へと立ち寄り、高次は家康から上杉征伐の間のことを頼まれ、弟の京極高知と家臣の山田大炊を家康に伴わせる。しかし、三成も家康を討つべく諸大名を誘っており、高次は氏家行広と朽木元綱から三成の西軍へ属することを求められる。
これに対して家康の東軍からも、再三の書状により大津城の堅守を頼まれる。高次は大津城の守りが弱いことから一旦は西軍へ属することを決め、大坂へ嫡子の京極忠高を人質として送り、大津城を訪れた三成と面会する。しかし関ヶ原への出陣に備えつつ、西軍の動向を東軍に伝える。ただし、御厨義道はこうした高次の行動は家中の親西軍派への配慮や万が一の京極家の生き残りのための策であって、一貫して東軍方として行動していたと解釈すべきとしている。なお、東軍諸将の間では高次が東軍についていることは7月の段階で広く知られていたが、石田三成ら西軍諸将は高次と豊臣一門との関係から西軍に加わるものと思い込んで高次が籠城を始めるまで東軍についていた事実に気づいていなかった。
高次は西軍と共に大津城を発ち、越前国の東野へと至るが、ここから海津を経て船で大津城へと戻る。城に兵を集め兵糧を運び込み、籠城し西軍を抑える旨を、家康の重臣である井伊直政に伝える。高次の行動は即大坂へと伝えられ、城近くの逢坂関にいた毛利元康(西軍総大将毛利輝元の叔父)軍が大津の町へと攻め寄せた。
西軍の総攻撃を受け、高次自身も応戦するが2ヶ所に槍傷を受け、三の丸、続いて二の丸が落ち、西軍は、降伏を勧めたが、高次はそれに従わず徹底抗戦の構えを見せた。しかし、西軍の立花宗茂や、北政所、家臣などの説得もあり、遂に降参した。高次は剃髪染衣の姿になって下城したので、宗茂によって高野山へ送られた。
一方、開城したその日に関ヶ原の戦いが起こり、西軍の敗北となった。結局、高次の篭城により足止めされた毛利元康および立花宗茂らの軍勢は移動に時間がかかったため、関ヶ原に参陣することができなかった。
若狭国主
関ヶ原の戦いの後、徳川家康は高次の功績を高く評価し、早々に高野山を下りるように命令した。高次は一度はこれを断ったが、弟の高知らの説得を受けて下山した。
高次は大坂で家康に会い、若狭一国8万5,000石へ加増転封され、後瀬山城に入りその後、小浜に入った。翌年には近江国高島郡のうち7,100石が加増された。
大坂の陣を控えた徳川家康の命により、高次は新たに日本海と北川と南川に囲まれた雲浜に、二条城に似た小浜城を築き始めた。また、後瀬山の麓に残った城跡と武家の屋敷を町屋として街路を整備し、新たな街区を設けるなど、小浜の城下町を整備した。