官兵衛の弟で黒田八虎の一人

黒田 利則くろだ としのり

黒田利高の肖像画

黒田利高の肖像画(福岡市博物館蔵)

概 要

黒田職隆の三男で官兵衛の異母弟。
秀吉に仕えた後、賤ケ岳の戦い以降、秀長の配下として各地の戦いで戦功をあげた。
甥・長政が福岡藩主となると1万2000石に加増された。

  ポイント

  • 黒田職隆の三男で官兵衛の弟
  • 秀吉、秀長に仕え各地の戦いに参陣し活躍

誕生・死没

  • 誕生:1561年
  • 死没:1612年
  • 享年:52歳

名 前

  • 幼名:甚吉
  • 通称:四郎太、長基
  •  号:養心
  • 諡号:養翁(死後おくる名)
  • 戒名:宗源院

氏 族

親 族

黒田職隆
神吉頼氏の娘
正室 間島氏常の娘
兄 弟 孝高(官兵衛)利高利則直之
正喜、正興

略 歴

1561年 1歳  黒田職隆の三男として誕生
1577年 17歳  豊臣秀吉の中国攻めが開始される
秀吉に仕える
1583年 23歳  賤ヶ岳の戦いに参陣
秀長に仕える
1587年 27歳  秀長軍として九州征伐に参陣
黒田家へ帰属
1592年 32歳  文禄の役に参陣
1600年 40歳  関ヶ原の戦いで中津城の守備にあたる
長政が福岡藩主となると宗像郡津屋崎1万2000石に加増
1612年 52歳  死 去

生 涯

1561年3月4日、播磨の大名・小寺家の家臣であった、黒田職隆の三男として播磨国姫路で生まれた。秀吉の参謀として活躍した黒田官兵衛とは異母兄の関係であった。

主家・小寺家が大名として滅亡すると官兵衛と共に秀吉に仕えた。賤ヶ岳の戦いに参戦し、戦功を挙げると、その後は秀吉の弟・羽柴秀長に転仕した。

1587年、秀長軍として九州平定に従軍した時に周防国山口でキリシタンの洗礼を受けキリシタンとなった。
九州征伐後、官兵衛が豊前国を拝領すると黒田家臣となり、2,000石を支給された。1592年の文禄の役に従軍。一旦帰国後に「養心」と号し続く、慶長の役の際にも旗本備として参加している。

1600年、関ヶ原の戦いが勃発すると、豊前国中津城の守備に当たる。その後、甥の黒田長政が福岡藩主になると、宗像郡津屋崎1万2,000石を与えられた。官兵衛の死後、孝高の肖像画を崇福寺に奉納し、1612年に死去した。享年52であった。法名は宗源院殿華翁養心大居士。亡骸は那珂郡市ノ瀬村の山上に葬られた。

子 孫

嫡男・長利は、1613年に19歳で死去。その子である孫一も、同月3歳で亡くなったため、利則の家系は断絶した。

参考資料(引用元)