概 要
黒田職隆の四男で官兵衛の異母弟。兄・官兵衛と同じく熱心なキリシタン。秀吉に仕えた後に秀長に仕え各地の戦いで参戦した。
官兵衛が豊前国に入ると黒田家へ戻り、関ケ原合戦の後、甥・長政が福岡藩主となると秋月城代となり1万2000石を拝領した。
ポイント
- 黒田職隆の四男で官兵衛の異母弟
- 熱心なキリシタン
- 黒田二十四騎、黒田八虎の一人
誕生・死没
- 誕生:1564年
- 死没:1609年
- 享年:46歳
名 前
- 幼名:惣吉
- 通称:惣右衛門、市兵衛
- 別名:正興、道長
- 諡号:永峯(死後おくる名)
- 戒名:高源院
- 法名:高厳院殿永峯道永大居士
- 霊名:ミゲル
官 位
- 図書助
氏 族
同い年の人物
略 歴
| 1564年 | 1歳 | 黒田職隆の四男として誕生 |
| 1577年 | 14歳 | 豊臣秀吉の中国攻めが開始される 秀吉に仕える |
| 1583年 | 20歳 | 賤ヶ岳の戦いに参陣 秀長に仕える |
| 1586年 | 23歳 | 秀長軍として九州征伐に参陣 黒田家へ帰属 |
| 1600年 | 37歳 | 官兵衛と共に関ケ原の戦いに参陣 |
| 1609年 | 46歳 | 大阪で死去 |
生 涯
直之は1564年、黒田職隆の四男として播磨国姫路で生まれる。秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛は異母兄の関係になる。
兄・利則同様に豊臣秀吉に仕え、次いで豊臣秀長付きとなったが、九州平定時の官兵衛の出兵に伴い黒田家に帰参した。
官兵衛が豊前国6群を与えられると、直之は4,558石を与えられた。朝鮮出兵では侍大将として渡海して朝鮮軍と戦い、武功を挙げたという。
1600年、関ヶ原の戦いが勃発すると官兵衛に従って参戦し、合戦後の富来城攻めで敗れるが、筑後久留米城攻めでは城受け取り役を務めた。
その後、甥・明石全登を匿ったり、福島正則に働きかけて広島城下の教会堂再建の許可を受け、それを自費で再建したりもしている。死去前日には聖体拝領も受けている。
