概 要
豊臣秀吉の軍師として活躍した、黒田官兵衛の嫡男。幼少期は織田への人質として豊臣秀吉の元で育った。
朝鮮出兵を経て、九州征伐なとで活躍した。その後、石田三成との関係が悪化し関ケ原合戦では東軍に属した。長政は調略の才能に長けており、西軍の小早川秀秋を内応させることに成功、東軍の勝利に貢献した。
戦後に家康より筑前福岡52万石を与えられ以後、家康への恭順の姿勢を貫いた。
ポイント
- 豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛の嫡男
- 朝鮮出兵、九州征伐で活躍
- 関ケ原合戦で小早川秀秋の調略に成功し東軍の勝利に大きく貢献
- 筑前福岡52万石の藩主となる
誕生・死没
- 誕生:1568年
- 死没:1623年
- 享年:56歳
名 前
- 松寿丸(幼名)
- 吉兵衛(通称)
- 武威円徳聖照権現(神号)
- 黒田大明神(神号)
- 黒崎大明神(神号)
- 興雲院殿前大中大夫筑州都督古心道ト大居士(戒名)
墓 所
- 崇福寺(福岡県福岡市博多区)
- 大徳寺塔頭龍光院(京都府京都市北区)
- 古心寺(福岡県朝倉市)
- 高野山奥の院(和歌山県)
氏 族
同い年の人物
親 族
| 父 | : | 黒田官兵衛 |
| 母 | : | 櫛橋光(櫛橋伊定の娘) |
| 正室 | : | 糸姫(蜂須賀正勝の娘、豊臣秀吉の養女) |
| 継室 | : | 栄姫(保科正直の娘、徳川家康の姪で養女) |
| 側室 | : | 筑紫広門の娘 |
| 兄弟 | : | 長政、熊之助 |
| 子 | : | 忠之、政冬(甚四郎)、長興、高政 |
| 菊子(井上庸名室)、徳(榊原忠次正室)、亀子(池田輝興正室) |
略 歴
| 1568年 | 1歳 | 黒田官兵衛の子として誕生 |
| 1577年 | 10歳 | 織田信長の人質となる |
| 1578年 | 11歳 | 村木荒重が謀反、乱の鎮圧後姫路へ帰郷 |
| 1582年 | 15歳 | 冠山城の戦いで初陣 本能寺の変 |
| 1583年 | 16歳 | 賤ヶ岳の戦いで功を挙げる |
| 1584年 | 17歳 | 小牧・長久手の戦いで大阪城の留守を務め雑賀・長宗我部軍と戦う |
| 1587年 | 20歳 | 九州征伐で活躍 |
| 1589年 | 22歳 | 父・勘兵衛が隠居し家督を相続 |
| 1592年 | 25歳 | 文禄・慶長の役で渡海 |
| 1598年 | 31歳 | 豊臣秀吉が死去 朝鮮より撤退 石田三成と対立 秀吉の遺命に背いて家康の養女・栄姫を新たに正室に迎えた |
| 1599年 | 32歳 | 福島正則、加藤清正らと共に三成を襲撃 |
| 1600年 | 33歳 | 関ケ原の戦い 東軍に属し小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りの工作を行う 筑前国名島に52万3,000余石を与えられる |
| 1601年 | 34歳 | 筑前に入府し、居城の着工する(黒田家の故郷からとって「福岡城」と名付ける」 |
| 1604年 | 37歳 | 父・官兵衛が死去 |
| 1614年 | 47歳 | 嫡男・忠之が大阪冬の陣に出陣 |
| 1615年 | 48歳 | 大阪夏の陣に出陣 |
| 1623年 | 56歳 | 死 去 |
