27歳の若さで亡くなった阿波細川家7代当主
細川 義春
概 要
細川成之の次男として誕生。初めは備中国守護・細川勝久の養子となるが、兄・政之が死去すると阿波に戻り阿波細川家の家督を継いだ。
細川政元の対抗馬として期待されたが27歳の若さで病死する。
ポイント
- 阿波細川家7代当主
- 細川成之の次男として誕生
- 細川勝元の対抗馬として期待される
誕生・死没
- 誕生:1468年
- 死没:1495年
- 享年:27歳
名 前
- 之勝(初名)
- 彦九朗(通称)
主君
官 位
- 兵部少輔、讃岐守
役 職
- 室町幕府:阿波守護
略 歴
1468年 | 0歳 | 細川成之の次男として誕生 |
1479年 | 11歳 | 伊予国に侵攻し河野氏と戦う |
1488年 | 20歳 | 兄・政之が死去したため阿波細川家の家督を継ぐ |
1491年 | 23歳 | 将軍・義材(義植)から偏諱を受け之勝から義春と名乗る |
1494年 | 26歳 | 伊勢貞陸と山城守護をかけ争う |
1495年 | 27歳 | 死 去 |
出生と家督相続
阿波細川家5代当主・細川成氏の次男として誕生
1468年、義春は阿波細川家5代当主・細川成之の子として誕生した。
兄・細川政之が阿波細川家を継いだため、義春は同族である
備中国守護・細川勝久の養子となった。
阿波守護家の家督相続
1488年、父の跡を継いでいた兄・政之が死去したため、義春は急遽阿波に戻って家督を相続し、阿波の守護となった。
家督相続後
細川政元の対抗馬として足利義植から重用される
義春は細川氏の嫡流である京兆家当主の管領・細川政元の対抗馬として、将軍・足利義植から大変重用され信頼を得ていた。
その証拠に義植は義春に将軍家通字の「義」を与え、「義春」へと改名させた。(改名前の名は「義勝」)
細川氏が偏諱として与えられていたのは毎回下の字であり、阿波細川氏はもとより、京兆家の当主ですらこれまで「義」の字を名乗ることは許されておらず、これは異例の対応であった。
また、義植は義春の家の近くに居を移すなど、それほど義春に対し期待をしていた。
しかし、それを良く思わない政元は次第に義春と対立し、これが明応の政変の一因になったとする。
山城守護
1494年、義春は山城守護を巡って、伊勢貞陸と争う。
義春は山城在地の国人衆(山城国一揆)を味方につけて貞陸を追い落とそうとしたが、京兆家の政元はこれを認めず、激怒した義春は京都を出て、阿波に帰国した。
しかし、その1ヵ月後に義春は27歳の若さで死去した。