細川高国によって典厩細川家を継いだ
細川 尹賢
概 要
細川家の庶流・野洲家の出身。細川政賢の養子となる。永正の錯乱が勃発すると養父・政賢とは敵対し細川高国側につく。その後、政賢が細川澄元側についたため、京から追放されると高国に典厩細川家の家督を 許され典厩家の当主となる。
ポイント
- 細川野州家・細川春倶の子。その後、典厩家・細川政賢の養子となる
- 細川高国に典厩家の家督相続を許され典厩家の家督を相続(典厩家が二分する)
- 高国から晴元側に寝返るが最終的に晴元と不和になり殺害(自殺?)される
誕生・死没
- 誕生:???年
- 死没:1531年
- 享年:?歳
名 前
- 政光(初名)→澄重→尹賢
- 尹元(別名)
- 桂芳院江月光公(戒名)
略 歴
1507年 | ?歳 | 「永正の錯乱」が勃発 細川高国を支持する |
1511年 | ?歳 | 船岡山合戦で養父・政賢が死去し典厩細川家当主となる(政賢流とで典厩細川家は二分する) |
1526年 | ?歳 | 細川晴元が挙兵 |
1527年 | ?歳 | 桂川原の戦いで三好政長の連合軍に敗れ京から逃走 |
1528年 | ?歳 | 細川晴元側に寝返る |
1531年 | ?歳 | 大物崩れで高国を破る 晴元と不和になり殺害される(自殺?) |
永正の錯乱
1507年、永正の錯乱が勃発し、細川宗家の家督を巡って細川澄元と細川高国との家督争いが起きると、 尹賢は高国を支持したが養父・政賢は澄元を支持したため対立。政賢いが船岡山合戦で戦死すると、高国から典厩細川家の家督相続を許され典厩細川家の家督を相続した。そのため、政賢流とで典厩細川家は二分する 尹賢流と政賢流の二つの流れが発生した。
細川晴元との戦い
尹賢が香西元盛を殺害したことによって細川晴元が挙兵する
1526年、尹賢は細川高国に仕えていた香西元盛が細川晴元(細川澄元の子)や
三好元長に内通しているという偽造文書を作り高国に報告した。これを信じた高国が元盛を殺害した。
これに怒った、元盛の兄弟・波多野元清や柳本賢治らが丹波国で高国・尹賢らに対して挙兵、またこれに呼応
して、阿波国で細川晴元、三好元長も挙兵した。
反乱の鎮圧に失敗し京都を晴元側に占拠される
尹賢は、丹波で挙兵した波多野元清の鎮圧を命じられたが失敗、1527年には三好政長と柳本賢治の連合軍と戦うが敗れ、 高国や将軍・足利義晴と共に近江に逃亡し、京都を細川晴元側に占拠された。
最 期
勝ち目がないと悟り晴元側に寝返るが…
1528年、高国と京都奪還を試みるがこれも失敗、尹賢は勝ち目がないと悟り、晴元側に寝返り、1531年の「大物崩れ」によって三好元長と共に高国を敗死させた。
しかし、その直後から晴元と不和になり、最終的に晴元の木沢長政によって殺害された。※自殺の説もあり。
その後の典厩家
細川尹賢が出演したドラマ
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無し