早死が多かった阿波細川家を支えた大黒柱

細川 成之ほそかわ しげゆき

細川成之の肖像画

細川成之の肖像画(徳島県丈六寺)

概 要

阿波細川家5代目当主。細川教祐の子として誕生。その後、伯父・細川持常の養子となり阿波細川家を継ぐ。
応仁の乱では東軍に属し細川宗家当主・細川勝元を支える。
次々と子に先立たれ、出家後も阿波細川家を支えた大黒柱

  ポイント

  • 細川教祐の子で細川持常の養子となり阿波細川家の家督を継ぐ
  • 応仁の乱では東軍に属し細川勝元を支える
  • 衰退する阿波細川家を支える

誕生・死没

  • 誕生:1434年
  • 死没:1511年
  • 享年:63歳
  • 墓所: 徳島県徳島市丈六町の丈六寺

名 前

  • 成之、久之
  • 常喜(法名))
  • 六郎(通称)

氏 族

官 位

  • 兵部少輔、讃岐守

役職

  • 相伴衆、阿波・三河・讃岐守護

同い年の人物

親 族

細川教祐
養父 細川持常
細川頼元娘
政之義春清雲院
   細川元有の正室

略 歴

1434年 0歳   4代目阿波細川家当主・細川教祐の子として誕生
1449年 15歳   阿波細川家の家督を継ぎ、阿波・三河守護となる
元服し「成之」と名乗る
1462年 28歳   畠山義就を討伐に参陣(嶽山城の戦い)
1465年 31歳   三河で一色家との戦いが激化
1467年 33歳   応仁の乱が勃発
東軍に属し西軍と戦う
1473年 39歳   讃岐守護となる
1478年 44歳  出家し家督を嫡男・政之に譲る
1488年 54歳   政之が死去。家督を次男・義春が継ぐ
1497年 65歳   義春が死去。孫の之持が家督を継ぐ
1503年 71歳   孫の澄元を細川政元の元へ養子へだす
1507年 75歳   細川政元が暗殺され後継者争いが勃発(両細川の乱)
細川澄元を支持し紛争する
1511年 78歳   死 去

出生と元服

阿波細川家4代当主・細川教祐の子として誕生

1434年、成之は阿波細川家4代当主・細川教祐の子として誕生した。
1449年には阿波細川家の家督を継承し三河・阿波守護となる。また、元服すると室町幕府8代将軍・足利義成(のちの義政)より偏諱を賜い成之と名乗る。

将軍・義政との関係

成之は将軍・義政からの信頼が厚く、1454年には義政より山名宗全討伐の総大将に選ばれた。しかし、直前に本家の管領・細川勝元が義政に願いでたため中止となった。
1462年には幕府の命令で畠山義就を討つよう命じられ河内国に侵攻し、嶽山城の攻撃に参戦した(嶽山城の戦い)。

三河守護として

前三河守護家・一色との戦い

足利義教の命により持常は三河守護・一色義貫を暗殺した。そのため父・持常は義教からその手柄として三河守護を阿波細川家に与えた。
しかし、一色残党の激しい抵抗により、阿波細川家は三河を支配するのに多大な犠牲を払った。

応仁の乱

東軍に属し、細川勝元を支援する

応仁の乱が勃発するとい、成之は東軍に属し、細川勝元を支援し京都の市街戦で西軍と戦った(上京の戦い・相国寺の戦い)
その後、讃岐守護となる。

三河守護

1476年、三河の守護代・東条国氏が西軍の一色義直方に攻められ自殺。そのため、三河守護は再び一色家と移ったが1478年に義直が三河を放棄した。以後細川氏は三河守護には任命されず、元三河守護・仁木氏守護代の末裔とされる西郷氏始め国人たちが治める状態になった。

応仁の乱以後

出家し家督を嫡男・政之に譲る

1478年、成之の最愛の娘が死去した。成之は娘の死を悲しんで出家し、家督を嫡男・政之に家督を譲った。
出家した、成之は諸国漫遊の旅に出発するが、成之の留守中に政之の追放を計画する家臣など家中が混乱に陥ったため成之はすぐに帰還。

息子達の死

1488年、嫡男・政之が京都にて早世した。そのため、家督を次男・義春が後を継いだが、そのわずか10年後の1497年に義春も亡くなり、孫の之持が家督を継いだ。しかし、之持はまだ若かったため成之が後見を務めた。以後、阿波細川家の権力は急速に低下していくことになる。

両細川の乱

細川政元との対立

1504年、政元の重臣・薬師寺元一が反乱を起こして政元に討たれた。政元は成之のことを黒幕と疑って討伐を計画した。これに対し成之は重臣・三好之長を政元側の拠点である淡路を攻撃させた。
政元も讃岐・阿波に討伐軍を派遣して自身も淡路まで兵を進めた。その後、成之のもう一人の孫である
澄元を政元の養子に迎える事で和解した。

両細川の乱

1507年、細川政元が細川澄之方に暗殺され、京兆細川家内で後継者争い(両細川の乱)が発生した。
成之は孫の澄元を支えるために奔走するが、1511年の船岡山合戦で細川高国に敗北した澄元は阿波に帰還し、成之も同年に78歳で死去した。

人 物

文化人としての活躍

成之は東山文化を代表する文化人の1人としてあげられ、連歌師尭恵・猪苗代兼載や横川景三と交流があり『新撰菟玖波集』撰集を後援、兼載から『薄花桜』を進呈された。
また、絵画・犬追物・蹴鞠・猿楽にも通じていた。

参考資料(引用元)