細川澄元を支持し細川高国と戦った典厩細川家当主
細川 政賢
概 要
細川和泉下守護家に生まれ、細川政国の養子となり、典厩細川を継ぐ。両細川の乱が勃発すると細川澄元を支持し細川高国と戦う
ポイント
- 細川和泉下守護家に生まれ、細川政国の養子となり典厩細川家を継ぐ
- 細川澄元を支持し、細川高国と争う
誕生・死没
- 誕生:???年
- 死没:1511年
- 享年:?歳
名 前
- 長慶院天耀照公(戒名)
主 君
官 位
- 右馬助
役 職
- 室町幕府:摂津知行主
略 歴
1495年 | ?歳 | 細川典厩家の家督を継ぐ |
1507年 | ?歳 | 細川政元が暗殺される(永正の錯乱) |
1508年 | ?歳 | 細川澄元VS細川高国による両細川家の乱が勃発 細川澄元を支援する |
1509年 | ?歳 | 澄元が高国に敗れ阿波へ逃亡 高国によって典厩細川家は細川尹賢が継承し典厩細川家は2分する |
1511年 | ?歳 | 澄元派の先陣大将として和泉国に上陸 船岡山合戦で敗れ戦死する |
出生と家督相続
細川家の庶流、和泉下守護家で誕生する
詳細は不明だが、政賢は和泉下守護家の細川持久の子として誕生し、その後、典厩細川家当主・細川政国の養子になったといわれている。
養父・政国の死後、典厩細川家の家督を継ぐ
1495年、養父・政国が死去すると、政賢が典厩細川家の家督を継いだ。
家督を継いだ政賢は分家の野州細川家の細川政春と共に本家である京兆細川家当主・政元をサポートした。
永正の錯乱
永正の錯乱
1507年、細川政元が細川澄之派の武将(薬師寺長忠・香西元長)によって暗殺された。
政賢は、細川高国、淡路守護家の細川尚春と共に政元を暗殺した香西元長・薬師寺長忠、彼らが擁立した細川澄之を襲撃した(永正の錯乱)。
この際に政賢は香西元長攻略を担当し、元長を討つ活躍をしている。
細川澄元を擁立する
澄之が死去し、当主の居なくなった京兆細川家に対し政賢は、政元は養子の1人で、政賢の義兄弟(妻と兄弟関係)の細川澄元を京兆家当主に迎えた。
両細川の争い
澄元を支持し、細川高国と争う
1508年、京兆細川家の家督を巡って、細川澄元と細川高国が争うと、政賢は澄元を支持し高国と対立。
高国が足利義植を擁立し、澄元を京から追放すると、政賢も澄元を追い京から出奔した。
これに対し、高国は自身の従兄弟である細川尹賢を典厩細川家の当主に任命し、典厩細川家は分裂した。
船山合戦
1511年、政賢は澄元の命を受け、先陣大将として京都を目指して和泉国に上陸した。
序盤は摂津・河内国などで戦況を優位に進めたが、援軍であった細川尚春(淡路守護)が摂津兵庫口で敗退すると、その翌日には澄元が擁立する前将軍・足利義澄が急死し次第に戦況は不利になった。
そして、船岡山(京都府京都市北区)で高国方の大内義興との戦い(船岡山合戦)で澄元側は大敗し政賢を始めとして遊佐就盛・山中為俊・奉行衆の松田頼亮らが戦死した。
細川政国が出演したドラマ
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無し