阿波国の大名で徳島藩祖
蜂須賀 家政
蜂須賀家政
概 要
豊臣家臣。秀吉最古参の家臣・蜂須賀正勝の嫡男。秀吉による四国征伐の後に父・正勝より阿波国を譲られる。関ヶ原合戦の際は子・至鎮を東軍に属させ、阿波徳島藩の安泰をはかる。以後も実質的に藩政を主導し、徳島藩の体制確立に貢献した。
基本情報
| 誕 生 | 1558年 |
| 没 年 | 1639年(81歳)(病死) |
| 墓 所 | 興源寺(徳島県徳島市) |
| 幼 名 | 不明 |
| 改 名 | 一茂、家政、秋長、蓬庵(号) |
| 号 | 蓬庵 |
| 通 称 | 彦右衛門 |
| 渾 名 | 阿波の古狸 |
| 戒 名 | 瑞雲院殿蓬庵常僊大居士 |
| 官 位 | 従五位下・阿波守、贈従四位 |
| 氏 族 | 蜂須賀氏 | (藤原氏・尾張国海東郡蜂須賀郷の国人)
| 主 君 | 織田信長→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→秀忠→家光 |
| 家族構成 |
| 父 | 蜂須賀正勝 |
| 母 | 大匠院(三輪吉高の娘) |
| 兄弟 | 修羅、義豊 |
| 子 | 畠山義英 |
同じ年の武将
略 歴
| 1558年 |
1歳 |
尾張国海東郡蜂須賀郷の国衆である蜂須賀正利の長男として誕生 |
| 1570年 |
13歳 |
姉川の戦いで初陣 |
| 1575年 |
18歳 |
豊臣秀吉に仕え黄母衣衆となる |
| 1579年 |
22歳 |
伯耆羽衣石城主南条元続を救出する |
| 1582年 |
25歳 |
本能寺の変 山崎の戦いに参陣 |
| 1583年 |
26歳 |
賤ヶ岳の戦いに参加 |
| 1584年 |
27歳 |
雑賀一揆鎮圧の功績により播磨佐用郡内に3,000石を与えられる |
| 1585年 |
28歳 |
毛利家との領土協定の交渉に当たる 四国征伐に参陣 |
| 1586年 |
29歳 |
阿波18万石の大名となる |
| 1587年 |
30歳 |
九州征伐に参陣 |
| 1592年 |
35歳 |
朝鮮出兵に参陣 |
| 1597年 |
40歳 |
加藤清正と浅野幸長を助け出す武功をあげる |
| 1598年 |
41歳 |
秀吉が死去 |
| 1599年 |
42歳 |
石田三成を襲撃しようとする |
| 1600年 |
43歳 |
関ケ原の戦いでは東軍に属したため出家し高野山へのぼる |
| 1603年 |
46歳 |
家康から阿波一円を与えられる |
| 1614年 |
57歳 |
大阪の陣が勃発し人質として江戸に出向 |
| 1638年 |
81歳 |
死去 |
秀吉の家臣として
1558年、家政は豊臣秀吉の腹心・蜂須賀正勝の嫡男として誕生した。
1570年の姉川の戦いで初陣を飾ると秀吉の黄母衣衆となり、長篠の戦いや秀吉の中国征伐等で戦功を立てた。
1582年、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、秀吉に従って山崎の戦いに参加した。
以後、賤ヶ岳の戦いや雑賀一揆鎮圧などの秀吉の天下統一における戦争に従軍し戦功を挙げ、播磨佐用郡内に3,000石を与えられた。また、外交にも手腕を発揮し父や黒田孝高と共に毛利氏と領土協定の交渉に当たった。
秀吉が四国攻めを行うと、その戦功により父・正勝は秀吉より阿波一国を与えようとしたが、正勝は秀吉の側近として仕える道を選んで辞退し、秀吉はやむなく家政に阿波を与え家政は阿波18万石の大名となった。
阿波へ入国した家政は、領国経営の新しい拠点として徳島城を築城した。
1587年、九州征伐に参加し、日向高鍋城攻めで功を挙げる。1590年の小田原征伐における伊豆韮山城攻めでは福島正則と共に先鋒を務め、武功を挙げた。
朝鮮出兵
1592年、秀吉による朝鮮出兵が行われると家政も文禄の役・慶長の役の2度とも出陣した。
1597年の南原城の戦い、蔚山城の戦いでは救援軍の一端を担い、加藤清正と浅野幸長を助け出すという武功を挙げた。ところが、家政たちが十分な追撃を行わなかった上、黒田長政ら諸大名と連名で本土に戦線縮小案を上申したことが秀吉の逆鱗に触れ、
家政は本土に呼び戻され、領国での蟄居と入地の没収という処罰を受けたが、徳川家康の計らいで処罰を回避した。一説によると家政への処罰は石田三成の意向がであったと推測される。
そのため、朝鮮出兵が終わり1599年に前田利家が死去すると、加藤清正・浅野幸長・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興と共に三成を襲撃しようとした。
関ケ原の戦い
1600年の家康による会津征伐が行われると家政は嫡男・至鎮を東軍に従軍させ自らは親徳川派として留守を守るため大坂城に残った。しかし、大阪城を占拠した利輝元により謹慎させられたため、家政は出家し豊臣秀頼に阿波を返上し高野山光明院にのぼった。
しかし、関ヶ原の戦で東軍が勝利すると嫡男・至鎮が東軍として参加していたため、戦後に家康から所領を安堵された。戦後は家督を至鎮に譲り、隠居した。
大阪夏の陣
1614年から始まった大坂の陣では、豊臣方からの誘いに「自分は無二の関東方」と称して与力を拒絶するとともに、駿府城の家康を訪ねて密書を提出している。自らを人質として江戸へ向かい終戦まで蟄居・恭順に努め蜂須賀氏の安泰を図った。
その後、戦国以来の長老として、3代将軍・徳川家光の側に御伽衆として活躍し。1638年に81歳で死去。