細川澄元を支持し高国派の宿敵・畠山尚順と争う

畠山 義英はたけやま よしひで

ポイント

  • 畠山義豊の子
  • 両細川の乱では細川澄元を支持し高国派の畠山尚順と争う
  • 守護奉行所・守護代奉行所が創設し、畠山総州家の領国経営の基盤が整備する

概 要

畠山総州家当主。畠山義豊の長男。父・義豊が畠山尚順に敗れ自刃すると、細川政元を 頼り、政元の傀儡として過ごが、その後、宿敵・尚順と和睦し政元からの独立を果たす。政元が暗殺され両細川の乱が勃発すると、細川澄元を支持し、細川高国を支持した尚順と対立し以後、 尚順と争う。

基本情報

誕 生1487年
没 年1522年(36歳)(病死)
幼 名聡勝丸
通 称次郎
官 位上総介
氏 族畠山氏(総州家)
家族構成
畠山義豊
不明
畠山義堯畠山在氏、勝王(畠山尚順からの養子)

略 歴

生涯

1487年、畠山総州家の当主・義豊の嫡子として誕生。
1499年、父・義豊が宿敵・尚順に敗れて自刃すると家督を継承、領国河内から出奔し管領・細川政元を頼り落ち延びた。その後、細川政元が尚順を破ったため、河内へ戻った。
以後、政元の傀儡として過ごしていたが、細川家内での内乱が激しくなると、義英は政元からの独立を果たすため宿敵・尚順と和睦し、義英は誉田城、尚順は高屋城の城主となり、河内国を半国ずつ領することになった。
義英と尚順の和睦により義英と細川政元の関係は悪化、政元の家臣・赤沢朝経に、居城・誉田城を攻められた。しかし、1507年、「永正の錯乱」により細川政元が暗殺される()[4]。この期に乗じて、義英は分国を回復した[4]。 しかし、永正元年(1504年)以来の畠山尚順との講和が破れ、永正4年(1507年)12月4日、義英は岳山城に籠城した[5]。永正5年(1508年)1月、尚順や細川高国により、岳山城は陥落したが、細川澄元の部将・赤沢長経が尚順らに無断で脱出させた[6][7][8]。これは、畠山氏の一本化・強大化を避けるための措置だった[6]。 その後、河内を奪った畠山尚順が、細川澄元から将軍義稙・細川高国・大内義興一派に鞍替えすると、義英は足利義澄・細川澄元らと結んで尚順との戦いを継続した。 永正8年(1511年)、一時、河内を奪い返すが、足利義澄の急死や、細川澄元が船岡山合戦で細川高国らに敗北すると旗色が悪くなり、河内を尚順に再び奪われた。永正10年(1513年)、尚順に敗北してからは逼塞した。 細川澄元派と細川高国派の対立が続く中、反高国派だった義英は、大和国の越智家全らと共に、高国派の畠山稙長(尚順の嫡男)が籠もる高屋城を攻めた[9]。永正17年(1520年)3月16日、同城は落城したが、河内国が義英に統一されることを嫌った越智家全は、稙長や遊佐順盛らを密かに脱出させた[10]。 永正17年(1520年)5月5日、細川高国の軍勢は、等持寺(京都市中京区姉小路東洞院付近)で三好之長方を破った(等持寺の戦い)[11]。河内国八尾に在陣していた義英は、この報を聞き吉野に逐電し、同月10日、高屋城は稙長に奪い返された[11]。 大永元年(1521年)10月に高国と対立して出奔した義稙を擁立した尚順と再度和睦したが、11月に稙長に敗北した記録が残っている。 以後は徴証が知れないが、興福寺大乗院門跡の日記の大永2年(1522年)4月30日条に「畠山濃州他界」という記録があり、大永3年(1523年)3月にもう一人の息子(嫡子)の義堯が観心寺に判物を発給していることから、この大永2年に没した畠山濃州が義英ではないかとされている[12][13]。 義英政権では、守護奉行所・守護代奉行所が創設され、畠山総州家の領国経営の基盤が整備された。

宿敵・政長との戦い

父の代からの宿敵である畠山政長が室町幕府の中枢にいたため、1493年に10代将軍・足利義材と政長を主力とした幕府軍の追討を受けた。
しかし、遠征直前の1492年に義材・政長と対立していた管領・細川政元と密約を結んでいたため、政元によるクーデター(明応の政変)が勃発し、逆に義材を捕らえ政長を自刃に追い込んだ。

政長を自害に追い込んだことにより、義豊は畠山家の家督と河内の守護職を一時的に手に入れたが、紀伊に逃れていた政長の遺児・畠山尚順が紀伊で打倒義豊の挙兵をすると、河内高屋城を尚順に落とされ山城へ逃亡し、さらに大和でも 義豊派の越智氏と古市氏が、尚順派の筒井氏・十市氏らに敗れて没落、河内・大和を尚順に奪われ追い詰められていった。

河内を失った義豊はは政元の支持の下、尚順と戦ったが、状況を打開することができず、1499年に河内十七箇所で戦死した。

1487年 1歳  畠山義豊の長男として誕生
1494年 8歳  元服
1499年 13歳  父・義豊が尚順に敗れて自刃したため、家督を継承
政元の庇護を受ける
1504年 18歳  尚順と和睦し河内半国を領する
細川政元との関係が悪化
1505年 19歳  細川政元に攻められる
1507年 21歳  永正の錯乱で細川政元が死去
尚順との講和が破棄される
1508年 22歳  細川高国派の尚順に河内国を奪われる
1520年 34歳  高国派の畠山稙長の高屋城を攻める
1522年 36歳  死去