死後の家督争いが応仁の乱の一因をつくった

畠山 持豊はたけやま もちとよ

概 要

畠山満家の三男、前将軍足利義持の偏諱を賜ってる。持富の死後に息子2人が、持国親子に反抗し畠山家で家督争いが勃発しそれが「応仁の乱」の一因となった。

 ポイント

  • 畠山満家の三男。兄に「持国」、「持永」がいる
  • 息子らが持国親子と反抗が「応仁の乱」の一因となった

誕生・死没

  • 誕生:???年
  • 死没:1452年
  • 享年:???歳

官 位・役 職

       
  • 役職:尾張守

所 属

親 族

畠山満家
遊佐河内守の娘
兄弟 持国持永持永
政久政長

略 歴


1425年 ?歳  元 服
1441年 ?歳  長兄・持国が失脚し畠山の家督を次兄・持永が継ぐ
嘉吉の乱により将軍・足利義教が死亡
持国が持永を討ち畠山の家督に復帰
1448年 ?歳  持国の後継者になっていたが持国が後継者を庶子の義就に変更
1450年 ?歳  義就が畠山の家督を継承
1552年 ?歳  死去
1572年 ?歳  加賀一向一揆に呼応し再び上杉家から離反
上杉謙信に松倉城を攻略され大名としての椎名家は滅亡した
1576年 ?歳  一揆方として蓮沼城を守るが上杉軍に攻略され自害する

出 生

☆ 出生年についての詳細は分かって

残念ながら持冨の出生については詳しいことはわかっていない。
1425年に元服し、兄である持国持永と同様に将軍・足利義持(「持」の字)を賜っている。

嘉吉の乱

★ 将軍・義教が暗殺され次兄・持永を討った長兄・持国が家督を奪還する

1441年、将軍・足利義教の不服をかった長兄・持国が失脚し、代わりに次兄・持永が畠山家の家督を継いだ。
しかし、同年、「嘉吉の乱」で将軍・義教が赤松満祐によって殺害されると、持国が持永を討ちとり家督に復帰した。
持冨は持永の屋敷にいた所を持国の手引きで脱出した。

家督争い

★ 持国の庶子・義就と持冨の息子で畠山家の家督争いが勃発

持国に嫡子がいなかったため畠山家の家督は持冨が継ぐ予定であった。
しかし、1448年に持国は後継者を持冨から義就(持国の庶子)に変更し、1450年に義就が畠山家の家督を継いだ。
それから2年後に持冨は死去するが、後継者変更に一部の家臣団は納得せず、持富の2人の子、政久政長の兄弟を擁立して持国父子に反抗、応仁の乱の一因を作り出した。