目 次
ポイント
- 伊達氏15代当主
- 「天分の乱」では稙宗と争い勝利し家督を継承する
- 子が六男五女もいる
誕生・死没
- 誕生:1519年
- 死没:1578年
- 享年:59歳
官職・役職
- 官位:従四位下左京大夫
- 幕府: 奥州探題
親 族
- 実父 : 伊達稙宗
- 母 : 蘆名盛高の娘(泰心院)
ーーーーー兄 弟ーーーーー - 長女:屋形御前 - 相馬顕胤室
- 女子:蘆名盛氏正室
- 女子 - 夭折
- 長男:伊達晴宗
- 次男:大崎義宣(1526-1550)
- 男子:伊達玄蕃丸 - 夭折
- 男子:伊達実元(1527-1587)
- 女子:二階堂照行室
- 女子:田村隆顕室
- 男子:伊達宗澄
- 女子:懸田俊宗室
- 六男:桑折宗貞 - 桑折景長の養子
- 七男:葛西晴清(1517-1547)
- 八男:梁川宗清(1532-1605)
- 男子:村田宗殖 - 村田近重の養子
- 男子:極楽院宗栄 - 極楽院善栄の養子
- 男子:亘理綱宗 - 亘理宗隆の養子
- 十二男:亘理元宗(1530-1594) - 亘理宗隆の養子
- 男子:大有康甫 - 東昌寺14世住職
- 男子:伊達七郎 - 夭折
- 女子:越河御前 - 相馬義胤正室
ーーーーー子どもーーーーー - 長男:岩城親隆- 岩城重隆の養子
- 長女:阿南姫- 大乗院、二階堂盛義正室
- 次男:伊達輝宗)
- 次女:鏡清院 - 伊達実元正室
- 女子:小梁川盛宗室
- 三男:留守政景- 留守顕宗の養子
- 四男:石川昭光- 石川晴光の養子
- 四女:彦姫- 蘆名盛興、盛隆正室
- 女子:宝寿院 - 佐竹義重正室
- 五男:国分盛重
- 六男:杉目直宗
略 歴
1519年… | 伊達稙宗の長男として誕生する | 1533年… | 室町幕府12代将軍・足利義晴の偏諱を受けて、「晴宗」と名乗る |
1542年… | 父・稙宗が上杉家に養子を送ろうとするのを阻止し、西山城に幽閉する(天文の乱) |
1547年… | 蘆名盛氏が晴宗側に寝返り形勢が逆転、天文の乱に勝利し稙宗を丸森城に隠居させる |
1553年… | 家臣の所領と家格の確定を行う(『晴宗公采地下賜録』) |
1555年… | 幕府から「奥州探題職」に補任される |
1565年… | 二男・輝宗に家督を譲って杉目城に隠居する(実権は握ったまま) 丸森城の稙宗が死去すると相馬盛胤が丸森城を接収する |
1566年… | 二階堂氏を救援するため蘆名氏と交戦する 四女・彦姫を嫁がせる条件で蘆名氏と和議を結ぶ |
1570年… | 伊達家の実権が完全に輝宗に移る |
1578年… | 杉目城で死去する |
生い立ちと元服
1519年、14代当主・伊達稙宗の長男として誕生。
1533年には元服し室町幕府12代将軍・足利義晴の偏諱を受けて、晴宗と名乗った。
父・稙宗との確執
稙宗と晴宗、両者の溝は深いものであった。その証拠となる出来事が2件存在している。
まずひとつは、稙宗は相馬顕胤に伊達領の一部となっていた相馬旧領の宇多郡・行方郡の一部を還付しようしていた、実は相馬顕胤は稙宗の婿にあたり非常に稙宗に協力的で稙宗も顕胤を大層可愛がっていたそうです。
これに待ったをかけたのが稙宗の長男の晴宗でした。
もうひとつは、三男・実元の越後国守護・上杉定実への入嗣です。
1542年6月、父・稙宗がさらに勢力を拡大するため、越後国守護・上杉定実の養子に弟・時宗丸を出そうとした(養子縁組の準備として時宗丸には定実から一字を拝領して実元と名乗らせた)これにも反発した晴宗は重臣の中野宗時・桑折景長らと共謀して鷹狩りの帰途を襲い父を西山城に幽閉し、実元の養子縁組を阻止しました。この以上のことから両者の間には深い確執があったと考えられやがて「天文の乱」へと繋がっていきます。
天文の乱
父・稙宗を西山城に幽閉しましたが、稙宗は小梁川宗朝によって西山城から救出され、さらに稙宗が奥州諸侯を糾合して晴宗と争う構えを見せたため、奥州全体を巻き込む形で「天文の乱」が勃発します。
この内乱は始め稙宗方が優勢で、晴宗方は敗戦続きであったが、1547年にそれまで稙宗を支持していた蘆名盛氏が田村氏や二階堂氏との対立により晴宗方に寝返ったことから形勢が逆転し、1548年3月に13代将軍・足利義輝の停戦命令を受けて、同年9月には晴宗方優位のうちに和睦が成立。晴宗が家督を相続して15代当主となり、稙宗は丸森城に隠居した。しかし、実際にはその後も父子の不和は収まらなかったとされています
当主としての晴宗
「天文の乱」で勝利し、当主となった晴宗は米沢城に本拠を移し、天文の乱により動揺した伊達氏家臣団の統制に着手します。
1553年1月17日には、『晴宗公采地下賜録』を作成し、天文の乱の最中に両陣営によって濫発された安堵状を整理して、新たに家臣団の所領と家格の確定を行い、同年には和睦を不服として抗戦を続けていた懸田俊宗・義宗父子を滅ぼします。
しかし、中野宗時を始めとする天文の乱で晴宗方の主力を担った家臣には守護不入権などの様々な特権を付与せざるを得ず、晴宗政権は宗時らを中心に運営されていくこととなる。
晴宗は6男5女(全て正室・久保姫の子)と子供に恵まれ外交に有利かと思われるかもしれないが、岩城氏・二階堂氏との縁組を除いては伊達実元や小梁川盛宗など一族・重臣に娘を嫁がせている(晴宗の子女の奥州諸勢力との縁組の多くは晴宗の隠居後に輝宗によって遂行されたものであった)。
奥州探題の補任と相馬家
1555年、幕府から奥州探題職に補任された。父・稙宗が陸奥守護に補任された際は大崎氏の奥州探題職を否定していないが、晴宗の補任は伊達氏の家格上昇を示す[3]と共に、従来の幕府地方統治方針を変更するものだった。ただし、晴宗の左京大夫補任と守護代である桑折景長への毛氈鞍覆と白傘袋の使用認可によって事実上の奥州探題には任じられてはいたものの、正式な奥州探題職の創設と晴宗の任命は1559年)の春(5月以前)であったとする説もある。これは伊達氏の探題就任については幕府も了承はしていたものの、幕府が探題格という既成事実を作った上で、実際に探題職に任命するという、慎重な手続を採用したことからであるとされている。
また、この頃に伊具郡丸森城に隠居していた父・稙宗が死去すると相馬盛胤が丸森城を接収し、さらに伊具郡各所を手中に収めていく。このため天文の乱以来の伊達・相馬間での抗争が再燃し、以後およそ二十年間わたって丸森城をめぐる攻防が展開されることとなる。
現に1563年に幕府により認可された全国大名衆50余名の中で、奥州(陸奥国)では蘆名盛氏と晴宗だけが大名として認められるという栄誉を受けている。
その後家督を二男・輝宗に譲って信夫郡杉目城に隠居した[6]。ただし、この時点では依然として晴宗と中野宗時らが家中を統制していた。
蘆名家との関係
「天文の乱」では味方になってもらった蘆名氏ですが、身内である二階堂氏領に攻め込むようになります。晴宗は二階堂氏救援のために桧原を攻撃したが撃退され、永禄9年(1566年)に盛義が降伏すると、盛氏の嫡男・盛興に四女・彦姫(輝宗の養女となる)を嫁がせる条件で伊達・蘆名間でも和平が成立した。しかし、隠居の晴宗はこの縁組に反対して輝宗と対立、輝宗は彦姫を自分の養女として縁組を結んだ上で、万が一晴宗と輝宗が争った場合には盛氏が輝宗を援助する密約まで交わしたと言われています。
晩年
家督を輝宗に譲った晴宗ですが、次第に両者の関係は悪化していきます。隠居したとはいえ一向に実権を手放さない晴宗に対して、当主となった輝宗が不満をいだいていたからです。
両者の間にはしばしば諍いが生じていたが、永禄13年(1570年)4月、輝宗により中野宗時・牧野久仲父子が謀反の疑い有りとして追放される(元亀の変)と、実権は完全に輝宗の手に移り、晴宗は杉目城に閑居する。以後は父子の関係も改善され、晩年には杉目城に一門や家来衆を招いてたびたび宴会を催し、その席では孫の梵天丸(のちの伊達政宗)が和歌を披露したという。
美貌で有名な奥さん(久保姫)
晴宗が正室の久保姫についてはこのような逸話がのこされています。
美貌で有名だった「久保姫」は父・岩城重隆の意向で結城晴綱に嫁ぐことになっていたましたが、久保姫の美貌を知って惚れ込んでいた晴宗が自ら軍勢を率いて輿入れの行列を襲撃して久保姫を連れ去り、強引に正室にしたとされています。
晴宗と久保姫の夫婦仲は良く、長男の親隆を岩城氏に入嗣させていたこともあって岳父・重隆との関係も改善され、天文の乱に際して援助を受けている。久保姫は晴宗没後に出家し、宝積寺を建立して亡き夫を供養した。その後は、孫の政宗を頼って宮城郡根白石に移住し、同地で1594年に74歳で没した。