信長の妹・市と結婚するが信長を裏切り滅びる

浅井 長政あざい ながまさ

浅井長政の肖像画

浅井長政像 (高野山持明院像)

ポイント

  • 北近江の戦国大名浅井家最後の当主
  • 信長と同盟を結び信長の妹・市の結婚する
  • 朝倉家との義を重んじ信長を裏切って滅びる

概 要

近江の戦国大名。浅井久政の子。反六角家の家臣達に擁立され父・久政を追放し家督を継ぎ六角家に反旗を翻した。その後は織田信長の妹・市を娶り勢力を拡大したが、信長が朝倉家を攻めると朝倉家との友誼を重んじ信長と敵対。居城を攻められ、市と娘たちを信長に託し自害した。

基本情報

誕 生1545年
没 年1573年(29歳 自害)
墓 所徳勝寺(滋賀県長浜市)
幼 名猿夜叉
通 称新九郎
戒 名養源院天英宗清
官 位左兵衛尉、下野守、宮内少輔
氏 族浅井氏
主 君京極高広
家族構成
浅井久政
小野殿(井口経元の娘)
正 室平井定武(六角家の家臣)の娘
継 室お市の方信長の妹)
側 室八重の方
兄 弟 浅井長政政弘政之、岡崎安休、治政、阿久姫、大弐局、京極マリア京極高吉の正室)
万福丸茶々、万寿丸、井頼?、円寿丸

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略 歴

1545年 1歳  浅井久政の嫡男として誕生
1553年 9歳  六角義賢が北近江に出陣し京極家と浅井家を破る(地頭山合戦)
浅井家が六角家の傘下に入る
1559年 15歳  久政の嫡男・猿夜叉(後の長政)が六角家の重臣・平井定武の娘を娶るが数か月後に離縁し浅井家と六角家が敵対する
1560年 16歳  父・久政が反六角派の家臣達によって強制的に隠居する
初陣である野良田の戦いで六角軍を破る
このころに信長の同盟関係になったか?
1561年 17歳  長政に改名する
1563年 19歳  観音寺騒動によって六角家が弱体化する
長政が多賀町・甲良町に勢力を拡大
1568年 24歳  信長が上洛を開始
1570年 26歳  信長を裏切り朝倉家に味方し信長を背後から攻撃(金ヶ崎の戦い)
姉川の戦いで信長に敗れる
1573年 29歳  織田軍によって小谷城が陥落し久政・長政親子が自害する

誕生と家督相続

人質もとである六角家の観音寺城で誕生する

1545年、浅井久政の嫡男として、母・小野殿の人質もとであった六角氏の居城・観音寺城下で生まれた。
浅井家は元々北近江の守護・京極家の家臣であったが、久政の時代に六角家に従属していた。

元服し「賢政」となのり六角家臣の娘と結婚

15歳で元服し、六角家当主・六角義賢の偏諱を受けて、賢政と名乗った。
その後、六角氏の重臣・平井定武の娘と結婚した。

六角家からの離反と浅井家の家督相続

妻と離反し六角家と対立

1559年、賢政は反六角派の家臣達に押され妻と離縁し六角家と対立した。
1560年、六角義賢は浅井方に寝返った高野瀬秀隆の肥田城への攻撃を開始した。これに対し浅井氏も軍勢を派遣、16歳の賢政の初陣となったが、六角軍を相手に野良田の戦いで勝利を収めた。

親六角派の父・久政を隠居させ家督を継ぐ

野良田の戦いの後に反六角派の家臣達が強引に久政を隠居させ長政が家督を相続した。また、織田家との同盟を成立させ信長の妹・お市の方を正室に迎えた。この時に信長と長政は「浅井氏と親交のあった朝倉を勝手に攻めない」と約束を結んだという。
その後、名前を「賢政」から「長政」に改名した。

六角家との戦い

1561年、長政が美濃に出陣したのを機にに六角義賢が浅井家の佐和山城を攻め攻略した。
美濃から帰還した長政は佐和山城を奪還すると、磯野員昌を佐和山城城主にした。

その後、六角氏内で内紛(六角騒動)が勃発、この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の勢力が大きく衰退した。
長政はこの機に六角領に侵攻し、浅井氏が現在の多賀町・甲良町域に勢力を拡大させた。
その後は六角氏との停戦協議により、膠着状態が続いたが、1568年に信長が上洛を開始し、浅井家の宿敵であった六角家は上洛軍によって所領を失った。

信長との戦い

金ヶ崎の戦い

1570年、信長が長政との約束を破り、朝倉氏の攻略に乗り出した。
長政は朝倉との義理を重んじて同盟関係にある信長を裏切り、織田・徳川軍の背後から攻撃をしかけた。
長政の裏切りで窮地に陥った信長だったが、木下秀吉らの殿軍のおかげで何とか退却には成功した(金ヶ崎の戦い)。

姉川の戦い

退却した信長は徳川家に援軍を要請し、朝倉・浅井攻めを決行、これに対して長政は朝倉軍と共に姉川で迎え撃つが、朝倉浅井連合軍は大敗した。

信長包囲網

姉川の戦いの後、長政は居城である「小谷城」に立て籠り信長に徹底抗戦した、また信長に脅威を覚えた三好三人衆や本願寺が挙兵、さらに武田信玄も加わり反信長の意志を表した信長包囲網が形成された。
しかし、信玄が上洛途中に急死すると信長包囲網は徐々に陰りをみせはじめた。

浅井家滅亡

信玄が急死したことにより、信長包囲網は一部破綻、信玄という脅威がなくなった信長は大軍勢を近江や越前に向ける事が可能になった。
1573年、信長は3万の軍を率い、北近江を攻めた。
長政は朝倉義景に援軍を要請し、義景は2万の軍で駆けつけるが、浅井家内では織田家に寝返る武将が相次いでおき、織田の軍勢が北近江の城を次々に落としていった。浅井氏の救援は不可能と判断した義景は越前国に撤退を開始した。 しかし、信長軍は撤退する朝倉軍を追撃し、そのまま越前国内へ乱入し朝倉氏を滅亡させた(一乗谷城の戦い)。
朝倉家を攻め滅ぼした信長は全軍を浅井氏攻略に向け小谷城囲んだ。信長は長政に降伏を勧めるが、長政はこれを断り続け、最後は信長の総攻撃にあい、父・久政が自害した後に正室の市と3人の娘を信長に託し自身も自害した。享年29。