ポイント
- 3代目古河公方
- 上杉氏の方針を巡って父と不和になる(永正の乱)
- 宇都宮家の支援により父を追放し古河公方となる
- 晩年には嫡男の晴氏とも対立している(関東享禄の内乱)
誕生・死没
- 誕生:1485年
- 死没:1535年
- 享年:50歳
官職・役職
- 第3代古河公方
略 歴
1485年 | 0歳 | 足利政氏の長男として誕生 |
1495年 | 10歳 | 元服する |
1506年 | 21歳 | 上杉家との関係性で父・政氏と対立するが顕定の調停で一時的に和解する |
1510年 | 25歳 | 再び父・政氏と対立 弟の義明が下総で小弓公方として独立する |
1512年 | 27歳 | 宇都宮家の支援を受け父・政氏を追放し家督を継承する |
1516年 | 31歳 | 縄釣の戦いで宇都宮成綱が政氏方の佐竹義舜を破り名実ともに古河公方となる |
1535年 | 50歳 | 死 去 |
出 自
2代目古河公方・足利政氏の嫡男として誕生する。
1495年に元服して、室町幕府第11代将軍・足利義高(後の義澄)の偏諱を受けて高氏(たかうじ)と名乗るが、初代将軍足利尊氏の初名と被ってしまうため、後に初代鎌倉公方・足利基氏(尊氏の子)の一字により高基または義基と改名した。
父・政氏との対立(永正の乱)
高基は上杉家の方針を巡って父・政氏としだいに対立していきます。
父・政氏は従来よりの「公方-管領体制」を目指して上杉家と協力しあっていたのですが、高基はそうは思わなかったのです。
1506年に一度大きな対立がありますが、これは上杉顕定の仲介のもと和解します。しかし、1510年、上杉顕定が長森原の戦いで戦死すると両者の亀裂は決定的となり後継ぎを巡り再び対立し、高基は一時、宇都宮氏の宇都宮成綱のもとに身を寄せます。
(この高基と政氏の争いのさなかに、高基の弟・足利義明は謀反を起こして独立し小弓公方となった)
古河公方就任
政氏と対立した高基は宇都宮成綱を中心とした結城政朝、小田政治などの支援によって、1512年に古河公方として後を継ぎ、扇谷上杉家や山内上杉家と対抗して、勢力拡大に奔走します。さらに1516年の「縄釣の戦い」では宇都宮成綱が政氏方の佐竹義舜を破ったことによって名実ともに古河公方となります。
後に山内上杉家とは和解して次男の晴直(上杉憲寛)を同家の養子としている。
嫡男・晴氏との対立(関東享禄の内乱)
「関東享禄の内乱」といわれる内乱で古河公方では足利高基と足利晴氏の対立、上杉家では、上杉憲寛と上杉憲政が対立します。
しかし、この乱については、相互に関連していると推定されるが、史料が少なく不明確な部分も多いためくわしい事はわかっていません。