ポイント
- 朝倉家7代当主
- 越中守護・斯波氏を倒し越中を平定
- 「朝倉孝景十七条」を制定
概 要
朝倉家景の子で朝倉家7代当主。越中国における守護・斯波氏と守護代・甲斐氏の戦いや、守護・斯波氏の家督争いなどを契機に勢力を伸ばし越中をほぼ平定した。
基本情報
| 誕 生 | 1428年 |
| 没 年 | 1481年(病死) |
| 墓 所 | 福井県福井市英林塚 |
| 幼 名 | 小太郎 |
| 改 名 | 教景→敏景→教景→孝景 |
| 戒 名 | 一乗寺殿英林宗雄居士 |
| 法 名 | 英林宗雄 |
| 主 君 | 斯波義敏→義寛→義廉 |
| 役 職 | 室町幕府越前守護職(守護代) |
| 氏 族 | 朝倉氏 |
| 家族構成 | |
| 父 | 朝倉家景 |
| 母 | 不 明 |
| 正室 | 朝倉将景娘(円渓眞成大姉) |
| 継室 | 逸見氏養女・温科氏娘(桂室永昌大姉) |
| 兄弟 | 堀江利真の室、孝景、経景、輿市郎、景冬、光玖、聖室宗麟、久嶽紹良、定国 |
| 子 | 氏景、景明、孫四郎、景総、教景(以千宗勝)、時景、景儀、宗滴 |
同じ年の武将
略 歴
| 1428年 | 1歳 | 朝倉家6代当主・朝倉家景の嫡男として誕生 |
| 1458年 | 31歳 | 守護・斯波氏と守護代・甲斐氏の合戦(長禄合戦)が勃発し甲斐氏側として戦う |
| 1459年 | 32歳 | 守護側を敗走させ地位を高める |
| 1461年 | 34歳 | 斯波義廉を守護に擁立 |
| 1466年 | 39歳 | 義廉は斯波氏家督を追われ義敏が斯波氏当主となる 孝景と宗全が結び義廉が斯波氏惣領(文正の政変) |
| 1467年 | 40歳 | 応仁の乱が勃発し斯波義廉と協力して西軍として参陣 骨皮道賢を討ち取る |
| 1471年 | 44歳 | 越前に帰国し細川勝元から守護権限行使の密約を見返りに東軍に寝返る |
| 1475年 | 48歳 | 越前をほぼ平定 |
| 1481年 | 54歳 | 死去 |
守護・斯波氏の有力家臣としての朝倉家
誕生と立ち位置
朝倉氏の先祖は日下部氏嫡流を称する但馬の古代武士団であり、当時は越前の豪族であったが、南北朝時代を経て越前守護・斯波氏の重臣となった。
そのような状況のなか孝景は1428年、朝倉家6代当主・朝倉家景の嫡男として誕生した。父は早くに亡くなったため、祖父の朝倉教景の補佐を受けた。
1452年には主君で越前守護の・斯波義敏より偏諱を受けて教景(のりかげ)から敏景(としかげ)と改名している。
守護VS守護代の戦い
守護代・甲斐氏を支援し斯波を義敏を退け義廉を守護の地位につける
1458年、守護・斯波義敏と斯波義廉を擁立した越前守護代・甲斐常治の争いが勃発した。
この戦いで孝景は足利義政の命により義廉を支援、その主力として活躍し越前敦賀方面に20余の合戦を繰り返し義敏を退け義廉を守護の地位につけた(長禄合戦)。
また、この戦いで甲斐常治が京で亡くなったため孝景は地位を高め一乗谷城を築城したほか、義敏と対立したため「敏」の字を棄てて再び教景に名を戻した。(※1464年、孝景は越前にあった興福寺大乗院の荘園を犯したため、
大乗院によって「教景」の名を呪詛されたため、名を教景から孝景に改めている)
応仁の乱
斯波義廉と共に西軍の主力として戦う
1466年、義廉は斯波氏家督を追われ、代わりに義敏が斯波氏当主に復帰した。
これに反発した孝景と山名宗全らは、文正の政変を起こして伊勢貞親・季瓊真蘂・義敏・赤松政則らを京都から追放し、再び義廉を斯波氏当主とした。
このような斯波氏の内紛や、足利将軍家や畠山氏の家督相続問題から、1467年に「応仁の乱」が勃発すると、孝景は主家の斯波義廉と協力して西軍として参陣し、御霊合戦、上京の戦い、相国寺の戦いなど主要合戦に参戦し、
義敏の越前侵入を防いだほか京極持清や武田信賢を討ち取り、伏見稲荷に籠もって西軍を苦しめた足軽大将・骨皮道賢を討ち取った。
越前平定
細川勝元から守護権限行使の見返りに東軍に寝返る
西軍の主力として活躍していた孝景だったが、東軍の浦上則宗と接触し、将軍・義政及び細川勝元から守護権限行使の密約をもらって東軍に寝返る(同陣営となった義敏は義政の命令で中立を保つ。代わりに松王丸と義敏の父斯波持種を擁立)。
この寝返りにより東軍が圧倒的優位になり、応仁の乱は終息へ向かう。越前では東軍陣営の権威を背景に、孝景は越前の実効支配による領国化を進め守護代・甲斐氏との合戦に勝利すると実力で越前一国をほぼ手中に収めた。
また本拠地を黒丸から一乗谷に移した。その後、1481年、54歳で死去した。晩年には嫡男・氏景に戦国大名としての合理主義てきな考え方を記した「朝倉孝景17箇条」を残した。
人物
天下一の極悪人
朝倉孝景は、公領や公家領・寺社領の押領を多く行ったため、「寺社」「公家」から相当嫌われていた。
当時、寺社が得意としていた人々の信仰心を利用した呪殺目的の護摩祈祷も、改名など呪詛回避を熟知する孝景には通じず、公卿の1人で前中納言だった甘露寺親長は、日記の中で孝景のことを「天下悪事始行の張本」と評している。彼の死を聞いた際には「朝倉孝景は「天下一の極悪人」である。あのような男が死んだことは「近年まれに見る慶事」である」とまで記している。
興福寺別当の経覚は、孝景の押領に対抗するため、延暦寺に追われていた親戚の本願寺8世法主・蓮如を自領の吉崎に匿い、代官の役目を負わせつつ浄土真宗の布教を許した。これが後に朝倉氏歴代を悩ませる一向一揆の温床となった。
孝景17条
孝景は非常に合理的な考えをもっており、嫡男・氏景に残した「孝景17条」には「刀や槍は名刀や名槍などに大金を使わず普通の槍をよく備えておくこと」、「合戦や城攻めでは吉日や方角などの吉凶に惑わされて攻め時を失うのは一番愚かな事で、 詳細に虚実を図り臨機応変の策略を立てる事を第一」、「歴代の家であっても無能であるなら奉行にしてはいけない」と定めている。
孝景軍の強さの秘訣
孝景は軍略に優れ応仁の乱や越前戦争の多くで勝利したが、それは孝景が智仁徳を備えた大将であったためという。孝景は豆を食べる時は兵卒と共に掴んで食べ、酒は家臣と酌み交わし、朝は早く起きて夜は兵卒を励まし、 傷ついた者を治療しその死を悼んだ。そのため朝倉の兵卒は孝景と水魚の交わりで忠義を尽くしたという
越前そば
福井県北部の名物「越前そば」は、孝景が籠城食として蕎麦を栽培させたのが始まりという。現在は大根おろしをかけて食べるが、当時はそばかき、蕎麦餅として食べたらしい。
