安東家8代当主
安東家を統一「北天の斗星」と称えられた

安東 愛季あんどう ちかすえ

安東愛季画

安東愛季画
(東北大学附属図書館蔵)

  ポイント

  • 分裂していた湊・檜山安東家を統一した
  • 巧みな戦略で安東家最大の版図を築き上げる
  • 「斗星の北天に在るにさも似たり」と恐れられた

誕生・死没

  • 誕生:1539年
  • 死没:1587年
  • 享年:48歳

名 前

  • 近季
  • 北天の斗星(あだ名)

官職・役職

  • 官位:従五位、侍従

親 族

安東舜季
安東堯季の娘
正室 砂越宗順の娘
側室 畠山清信の娘
兄弟 愛季 、 春季(友季) 、 茂季 、 季隆 、 季堅
業季、秋田局、実季、英季、季勝、浪岡顕村正室
浪岡顕村の正室

略 歴

1539年 0歳  安東舜季の子として生まれる
1562年 23歳  比内郡の浅利家を傘下にする
1564年 25歳  南部領の鹿角郡に侵攻
1569年 30歳  鹿角郡から撤退
1570年 31歳  湊騒動が勃発
安東家を統一
1580年 41歳  従五位上侍従となる
1582年 43歳  浅利家を滅ぼし北出羽を統一
1587年 51歳  戸沢盛安との戦いの陣中で病没

概 要

愛季は檜山安東家の安東舜季と湊安東家の娘(安東堯季の娘)の間の息子である、つまり両家の間から生まれた子供である。15歳の時に父・舜季が没したため檜山安東家の家督を継ぎます
家督を継いだ愛季は湊・檜山の両安東家を統一また、能代湊や土崎湊を整備し交易力を増大させます。その後比内地方を支配し、南部領の鹿角郡獲得を目論み度々進軍します。「第二次湊合戦」では、由利地方の制圧に成功しさらに勢力を拡大します。
このころになると、愛季は全国の動向に注目し、織田信長に毎年の貢物を贈ることで誼を通じ、信長の死後は羽柴秀吉と誼を通じるなど中央権力とも連絡を密にしていました
晩年には従五位上侍従となるなど、安東氏の最盛期を築き上げたと伝えられている。また、晩年には名字を安東から秋田へと改めている。その後も更なる勢力拡大を図り、浅利勝頼を蠣崎慶広を使い謀殺。出羽北部の沿岸部をほぼ統一し、内陸部に進出し雄物川流域の支配権を巡り戸沢氏との戦いに向かったが、角館城主戸沢盛安と戦った際、仙北淀川の陣中で病死した。

湊安東家・檜山安東家の統一

両家統一の経緯について詳しい事はハッキリとは解明されていないが、一般的には湊安東家7・9代当主「堯季」に嫡男が居なかったため、堯季の没後、愛季は実弟である茂季を強引に湊安東家に養子にだし継くがせる。これにより湊系は実質的に檜山系に吸収(茂季は愛季の傀儡であった)され、その後、茂季没後、愛季が後見役となり両安東家は統一される事となる。

北日本最大の港「土崎港」の改修

愛季は国内のインフラ整備にも力を注いでいました。その中でも戦国時代北日本最大の港と言われた「土崎港」の整備は愛季の功績の一つそして挙げられます。
土崎港は、雄物川の河口に位置する港町であり、平安時代の蝦夷討伐軍が拠点として築いた秋田城への物資の補給などに利用された港であった。三津七湊の1つに数えらた。
愛季は、雄物川上流域の大名・国人による湊における交易を統制することを目的として、土崎港を改修して北日本最大の港湾都市に育て上げたとされる。

第二次湊騒動合戦

湊騒動は檜山安東氏と湊安藤氏との間で繰り広げられた争いである。全三回起きており、愛季の時代には二回目の「湊騒動」が起きている。その経緯については下記の通りである。
堯季の没後、後継者が居なかった湊家は檜山家から愛季の実弟である茂季を養子に迎えることになる。
茂季は愛季の命令を受け、豊島領内(現豊島村付近)との交易を制限し豊島玄蕃からの反感を買う事になる、また同じ時期に羽黒山の使者が神札配布のため奥羽各地を回っていたが、玄蕃は交易等の関係上、使者を自領に引き止め安東愛季への神札の配布を取り消すよう求めた。これに怒った愛季は兵を出兵を決意、豊島玄蕃も下刈右京、川尻中務、仙北の小野寺氏、戸沢氏らと共に反旗を翻し挙兵しここに第二次湊騒動合戦が勃発します。
騒動は2年に及び推古山において激戦が行われたが、愛季の救援もあり乱は鎮圧。玄蕃は舅である由利地方の仁賀保氏を頼り落ち延びた。一説にはこの事件後に、秋田郡一帯は愛季の支配下となり、茂季は豊島城に移されたとも伝えられる。
愛季はまた、豊島氏に同調した大宝寺氏の由利地方への進出に対抗し、大宝寺義氏の自壊にも助けられ由利地方を勢力下に置いた。

「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」

安東愛季は「斗星の星」というあだ名を持っています。これは文武に秀で、秋田郡・檜山郡・由利郡などを版図に収めて羽後(出羽北半)最大の大名となった愛季を、「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評したからです。

参考資料(引用元)