同族である小笠原家に従い信玄と戦った

赤沢 経智あかざわ つねとも

概 要

赤沢政経の子。赤沢家の宗家である信濃守護・小笠原家に仕えた。
武田信玄が信濃へ侵攻し、小笠原家が信濃から追放されると主君・小笠原長時と共に越後の上杉謙信を頼った。

  ポイント

  • 小笠原家の分家である赤沢家の出身
  • 祖父は細川家の家臣として活躍した赤沢朝経!
  • 宗家である小笠原家に仕え信玄と戦うが敗れて越後に落ち延びる

誕生・死没

  • 誕生:1511年
  • 死没:1574年
  • 享年:64歳

名 前

      
  • 号:玄澤
  • 別名:又太郎

官 位

  • 伊豆守、式部少輔

所 属

親 族

赤沢政経
島館入道喜仙娘
兄弟 朝経、経堅、幸純、義経、長経(養子)
長勝、男子(僧籍)、小笠原貞経

略 歴

1511年 1歳  誕 生
1545年 35歳  小笠原長時と共に信玄と戦う
1550年 40歳  小笠原家が信玄に敗れ越後に落ち延びる
1574年 64歳  越後で死去

赤沢家

赤沢氏は清和源氏(河内源氏の庶流甲斐源氏)の流れをくむ小笠原氏の庶流。伊豆で発祥した後に信濃に移り。宗家である小笠原家に仕えた。
1335年の「中先代の乱」(北条家再興の反乱)が勃発すると、赤沢家の当主・常興は小笠原貞宗に従って信濃に出陣し北条残党勢の鎮圧にあたり、 この時の武功により信濃筑摩郡浅間郷と更級郡四宮荘北条(塩崎)を与えられ、塩崎城を構えて居城とした。

参考資料(引用元)