津軽氏発祥の地・津軽西浜に所在する戦国城館
種 里 城
種里城 本丸跡
1.城データ
年 表
1491年 … | 南部(大浦)光信によって築城される |
1334年 … | 師行が戦死し、南部家が弱体する |
1502年 … | 大浦城の築城に伴い光信の子・大浦盛信が城主となる |
1523年 … | 種里八幡宮が完成する。 |
1988年 … | 跡地に資料館「光信公の館」が建設されることに伴い八くる調査が行われる |
立 地
青森県西部、鯵ヶ沢町西方に所在する城である。赤石川とその沖積地を望む左岸丘陸上、標高約75mに位置する山城である。
西浜海道(国道101号線)が近くを通っており、これが戦国時代の幹線道路とされている。また、鯵ヶ沢付近は丘が多く平野部が少ない特徴をもっており、このため農業には適さず、古くから主として日本海交易により経済をまわしており、地域支配の拠点となる館は主に海に面した西浜海道沿いに多く位置していた。
種里城のルート
西浜海道から種里城へ至るルートは赤岩川による船運のほかに、赤岩川左岸の陸路が通じていた。このルートを通れば「将軍塚」と呼ばれる土塁状の高まりに突き当たる。これは種里城の木戸であったという伝承があり、出入り口を監視する。種里の境界領域を示すものであったと考えられる。
上記のルートからさらに奥に進んでいくと、南部光信が建立したとされる種宮八幡宮にはいる、種宮八幡宮は交通の起点となっている。
この種宮八幡宮を南へ進めば本丸にはいり、西は種里城の背後のつけるように、西は小森集落から岩木山南麗を通る事ができる
城の規模
南北200m、東西100mの規模を持つ主郭を中心に堀を挟んだ周囲三方の台地平坦面で構成されている。主郭の東側わ急斜面をなし、他の三方 は深さ20m、幅30mの深い堀が巡っており主郭は極めて防御性が高い。堀を挟んだ三方は寺や武家屋敷が並んでいたと推測される。
津軽氏発祥の地
種里城は津軽地方を統一した津軽(大浦)氏の発祥地とされている。それは1491年に南部氏の一族・南部光信が九戸郡下久慈から「大浦・種里」に入場して種里城を築城した事に始まったとされているからである。
元々この地方は十三湊を支配していた下国安東氏が支配していたが、1442年に南部氏に攻められ蝦夷(北海道)に逃亡して以降、津軽奪還を図る安東氏と南部氏による激しい合戦の場となっていった。その戦乱の過程で安東家は出羽(秋田)に拠点を移すが、津軽へ侵攻は止める気配がなかったので南部氏は津軽地方の影響力を確立するために一族である光信を種里城に送るのである
その後光信は種里城で死去することになるが、津軽家始祖として位置ずけられることになり、現在も種里城本丸跡の西南にある「光信公廟所」で祀られている。
国史跡指定と現在
種里城は長年の発掘調査の成果が認められて平成14年国史跡「津軽氏城跡」に追加指定されている。現在は城郭の半分が杉林になっており、唯一主郭のみが公園化されて一般公開されている、主郭には歴史史料館「光信公の館」が整備され発掘調査の出土品のほか、津軽氏にかかわる史料が展示されている。また前庭にはわ、津軽氏の家紋にあやかり、「牡丹」が800本植えられている。