1.城データ
立 地
中世から近世にかけての平山城で、七戸川支流の作田川左岸に位置し、標高40mの丘陵に置かれた。
七戸城の成り立ち
七戸城の築城についてはいくつかの説があるが一番有力な説が14世紀後半の南部政光により築城されたとする説である。
根城南部氏の代八代当主であった、南部政光は1396年頃に甥(兄の子供)に根城城主の席を譲り七戸に移り七戸城を築城した。またこの時に観音堂や不動堂といった寺院を創建し、主要街道の整備を行ったとする説が有力である。
縄張り
七戸城の縄張りの特徴は、平野部を臨む複数の舌状台地の先端を利用して築かれていることである。そのため平野部から見ると、山城のように見える。
また自然の大きな沢を利用し、その両側の法面を加工して空堀として作り出している。
主郭のある台地は中央に空堀をまっすぐに通し、直交に空堀を入れている。
郭は「北館」を中心に10箇所の郭からなっており、規模としては約25ヘクタール(東京ドーム約5個分)を超える大規模な城郭である。
七戸城が巨城な理由
なぜ、七戸城の規模は大きいのか…その理由としてあげられるのは、南部氏の居城の中で七戸城が南部領内で最も北に位置していることにある。七戸城の北側には安東氏に関係した蠣崎氏やさらには北海道に逃げ延びた安東氏一族がいた。安東氏は南部氏によって十三湊を攻め滅ぼされ北海道に逃げ延びた。その安東氏が南部領内に攻めてくる時に真っ先に攻撃を受けるのが七戸城である。そのため、安東氏に対しての「南部氏の北方最前基地」としての役割を担っていたからこそ軍事基地として大規模なものにならなければならなかった。
実際に蠣崎氏は1456年に七戸城を攻撃したとされている。
九戸の乱
1591年に九戸政実が南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して反乱を起こすと(九戸の乱)七戸家も反信直軍としてこれに参加した。
七戸氏は信直側である津村伝右衛門の居城である伝法寺城を攻撃したが失敗に終わった。しかし、これらの失敗にもかかわらず九戸側の勢力あ増大し、七戸周辺の土地も七戸氏に味方したとされている。
しかし、七戸城に守備兵がいない隙をつかれて上杉景勝が七戸城を一気に襲い落城させてしまった。その時、七戸城の北側にあった出丸の館や南東側の坂本館などで激しい戦闘が行われた。
反乱に敗れた七戸家国は捕らえられ処刑されてしまう。そして1592年に廃城となってしまう。