伊達領国から突出地域に所在し大崎領侵攻の拠点

千石城せんごくじょう

千石城 提供元:城びと 様


1.城データ

築城年

  • 15世紀頃

築城者

     
  • 不 明

別名

  • 松山城

天守構造

  • 無し

城郭構造

  • 山城

遺構

  • 曲輪、土塁、堀切

比高

  • 50メートル

主な城主

廃城年

  • 1657年

立 地

大崎市松山は北半分は鳴瀬河流域にそった広大な水田地帯、南半分は標高100m前後の丘陵地帯が続いている。千石城はこの丘陵(大松沢丘陵)の北端近くに所在し、北へ2.5kmほどに鳴瀬川がある。

伊達領北側の境界城

戦国期の千石郷は東に長江氏、西に大崎氏、北に葛西氏といった強大な勢力に囲まれた地帯で、伊達氏の領国か突出した地域であった。伊達氏が千石郷にはいったのは15世紀初めごろとされており、その際には伊達氏家臣・遠藤氏が入った。

構 造

南北に広がる丘陵尾根上に主要郭軍が並列し、そこから西方に延びる幾筋かの支尾根は段差による大小の平場が連続し、現松山市街に向かって下っている。
千石城は東西約450m、南北750mの規模を有しており、千石郷の領主・遠藤氏の地域支配の拠点としては規模が巨大すぎることから、伊達氏の軍事拠点として運用されており、軍勢集結の駐屯地として伊達方の主導によって改修された結果とされている。

関連記事