1.城データ
築城年
- 着工:1539年
築城者
- 南部晴政
別名
- 留ヶ崎城
天守構造
- なし
(現在は城跡に模擬天守有り)
城郭構造
- 連郭式山城
遺構
- 曲輪
主な城主
- 南部氏
廃城年
- 1684~1688年
年 表
1541年… | 焼損した聖寿寺館(本三戸城)の代わりに南部晴政が築城させた |
1582年… | 南部信直が晴政の家督を継ぎ三戸城に入城 |
1591年… | 豊臣家臣、蒲生氏郷らにより石垣を持った城へと改修される |
1634年… | 江戸幕府より居城変更の命を受け,三戸城から盛岡城に拠点を移す。 |
概 要
青森県三戸郡三戸町内にある城。もともと南部氏の居城に使用されていたのは聖寿寺館(本三戸城)であったが、 家臣の放火によって消失、 その3年後、南部氏を統一した晴政の命により聖寿寺館の跡地にいまの三戸城が築城された。
立 地
三戸城は三戸町市街地のほぼ中央に位置し、馬淵川と熊原川の侵食によって出来た、階段状の地形の上にある連郭式山城である。城の中心に位置する大御門から東側は本丸を初めとする城の主要部で大手門から本丸手前までは一門や家臣の屋敷が広がっている。現在は城山公園として整備され、公園内には模擬天守や歴史資料館などが配置されている。
南部家の居城へ
南部信直の時代、豊臣秀吉より領内にある渦中の城館の破棄を命ぜられ、家中の妻子を三戸城に集めるよう命令が下った事から三戸城が南部氏の居城となったと考えられる。
大規模な改築
1591年、九戸一揆平定後、奥州仕置軍を率いた蒲生氏郷らにより、三戸城は近世城館のシンボルといえる石垣を持った城へと普請される。その際に本丸に三層三階の御三階櫓が上げられたと考えられている。
1634年に盛岡城が居城と定められて、三戸城は御古城と呼ばれ、城代が預かる形となったが、石垣の補修や御掃除奉行が設置されるなど、藩主より管理を疎かにしないように働きがけがなされている。