1.城データ
築城年
- 1185年
築城者
- 八田知家(小田氏の祖)
別名
- 特に無し
天守構造
- 無し
城郭構造
- 平城
遺構
- 塀、曲輪、土塁、櫓台、虎口、枡形
比高
- 0メートル
廃城年
- 1602年
概 要
小田城跡は、400年以上前の鎌倉時代から戦国時代にかけて、常陸国(現在の茨城県の大部分)南部に勢力を持った小田氏の居城後で、国の史跡にしていされている。
八田氏の居館として出発し、南北朝時代に入ってから居館から防御のための城郭へと転化し、戦国時代にはいってからは度重なる戦乱の中で戦闘用の城に転化していった。
構 造
この城は平城として長所を十分発揮するよう巧妙に設計されている。
本丸と各郭は深い堀と高い土塁で囲まれ、重要な出入口には馬出しを設けて、直接進入ができないようにしてある。
郭は堀によって隔てられ、橋で結ばれている。
郭は外部になるにつれて広くなるが、その中に堀や土塁を設けて、郭内の自由な移動を妨げている。
郭群の外を北から東に囲む最外部は城下町をなし、その外も堀と土塁で囲まれている。
小田城と小田家
築城時期は1185年?とされており、初代の八田知家が小田を本拠としたことからとされています。
八田知家は藤原北家の流れを汲む「宇都宮氏」と同系の氏族で源頼朝の信任が厚く常陸守護職に任じられました。
しかし、鎌倉時代後半には北条氏の進出により所領を減少させ守護職も失いました。
南北朝時代に7代・治久は南朝方の重臣・北畠親房を小田城に向かえ戦いました、その時に親房が小田城で「神皇正統記」を執筆しました。
室町時代には関東で最も格式の高い名家をさす「八屋形」の一つに数えられました。
佐竹家による改修
1569年、小田氏が「手這坂の戦い」で佐竹氏に破れ小田城を奪われ、土浦へ逃げると、佐竹氏は梶原政景を城代として守らせた。政景によって大幅に改修された。
東曲輪
本丸の東前面に位置する、幅約50mの南北に細長い曲輪跡で、東と南は基底6~10mの土塁跡で囲まれていたという。
曲輪内部で建物跡などがほとんど確認されなかったことから、本丸跡を防御するとともに、出撃する拠点(馬出?)だと考えられます。本丸跡東虎口へと連絡する橋は、半ばまでが土橋、半ばからは木橋となっていました。東の堀跡を隔てたあたりは「一ノ木戸」という通称地名が残る場所で、東曲輪跡から城跡の東側へと続く通路や門があったと思われます。
東虎口
本丸にあった3つの出入口のうちの1つで幅は約4mあります。対岸の東曲輪へは木橋がかけられ、さらに土橋へとつながっていました。
北虎口
本丸にあった3つの出入口のうちの1つで幅は約3.3mあります。
南西虎口
虎口周辺には部分的に石垣が築かれ、石垣は幅3.2mの通路の両側から内側へ「ハ」の字状に広がります。
通路を横断して並ぶ石列もあり、この石垣と石列に囲まれた3.2m四方程の門がありました。石垣の石財は黒雲母片岩を主体に花崗岩も転用しています。
南西馬出跡
攻守を兼ね備えた「馬出」は、約50m四方で南・東・西は上幅約10m、深さ約3mの堀と下幅約5mの土塁で北は上幅約20mの堀でそれぞれ囲まれています。北側は木橋で本丸と、東側は土橋で外の曲輪と連結し、西側は堀が屈曲し幅が狭いことから木橋があったと思われます。