伊達稙宗の居城であり、「塵芥集」が制定された場所
西山城
西山城跡
西山城跡
1.城データ
築城年
- 完成:1189年?
築城者
- 常陸入道念西?(伊達家宗家初代)
別名
- 桑折西山城
天守構造
- なし
城郭構造
- 山城
遺構
- 曲輪・空堀
主な城主
- 伊達氏
廃城年
- 1548年
年 表
1189年… | 伊達家宗家の先祖・常陸入道念西が築城 |
1532年… | 伊達種宗の居城となり、大規模な改築が行われる。 |
1536年… | 分国法「塵芥集」の制定事業が西山城で行われる。 |
1542年… | 「天分の乱」勃発種宗が西山城に幽閉される。 |
1548年… | 「天分の乱」終焉。種宗が丸森城に隠居したのを機に廃城される。 |
概 要
伝承によれば、1189年(文治5年)の奥州合戦の戦功によって、伊達郡を与えられた常陸入道念西が居を構えたと言われている。また、応永年間(1400年頃)に伊達政宗が鎌倉公方に背いて立て籠もった赤舘もこの西山城と言われている。
立 地
高舘・中舘・西舘といわれる3箇所を中心とした、数箇所の郭(曲輪)によって構成され東西1キロメートル、南北500メートルの規模の城。
城の北面から東面へ流れる産ヶ沢川は天然の堀として利用され、城から川にかけては急崖である。比較的、傾斜の緩やかな南側には現在は、
観音寺という伊達氏ゆかりの寺が残っている。また、西舘の南には枡形虎口、周囲には石塁が残されている。
現在は、遺構保護のため、土盛工事を行っており、遊歩道の設置や建物跡の平面表示復元等が5年計画で行われている。(完成予定:令和3年)
伊達稙宗と西山城
西山の名が記録に現れるのは1536年に伊達稙宗により制定された伊達領国内の分国法となる「塵芥集」の中である。
この中に「道のほとりにて見つけ候拾い物西山の橋本に札を立て」とあり、落とし物は、西山城下、産ヶ沢の橋の袂に置くことを定めている。