陸奥の名家浪岡北畠氏の居城
浪 岡 城
浪岡城
1.城データ
年 表
1373年… | 築城前の敷地内に平安京に似せた祇園・八幡・加茂・春日の各神社が配置される |
15世紀中頃… | 北畠顕義によって浪岡城が建造される |
1578年… | 津軽為信によって落城する |
1940年… | 青森県初の国史跡にしていされる。 |
1977年… | 発掘調査が開始される |
築城以前
築城以前は、1373年に平安京を模して敷地の四隅に祇園(現・北中野広峰神社)、八幡(現・浪岡八幡宮)、加茂(現・五本松加茂神社)、春日(現在は廃社)の各神社が配置されていた。
構 造
河岸台地を利用する平城となっており、内館・西館・北館・東館・猿楽館が城の主要部をなし、西館の西に検校館、東館の東には新館がある。そして大豆通りが通る「無名の館」の八箇所の平場からなりそれぞれ幅20m前後の堀で区画している。
史跡指定地は約13万6000㎡。東側には加茂神社、西に八幡宮の神社領域が存在し、城域と一帯化した城下町が存在していた可能性が高い。
内館は現在
立 地
現在の青森・弘前・黒岩・五所川原市のほぼ中間に位置し。古来交通の要の地として発展してきた。津軽平野部から外浜に抜ける大豆坂通りが蝦夷島・北方への第一ルートであり、浪岡城はその道筋に存在している。
城は、北東側から傾斜する扇状地形の突端、浪岡川の段丘上に立地しており、南の河川氾濫源を自然の堀として活用し、丘陸上の平場を水堀と中土類で区画しながら防御機能を高めている。
内 館
内館の発掘調査から、建物の部屋割りを見ると3×3間のいわゆる九間といわれる部屋が存在し、書院造り建物お仲で政務や接客の部屋として使われた可能性が高いと考えられ、また、磁盤なども多数出土することから、内館は城主の居住空間である事がわかる。