秀吉天下統一のきっかけになった城

名胡桃城なぐるみじょう

名胡桃城址 群馬県利根郡みなかみ町下津3462ー2


1.城データ

築城年

  • 1492年

築城者

  • 沼田氏

別名

  • 特に無し

天守構造

  • 不 明

城郭構造

  • 山城

遺構

  • 曲輪、土塁、土橋ほか

比高

  • 約50メートル

廃城年

  • 1590年

年 表

1492年… 沼田氏が名胡桃城を築く
 
1560年… 上杉謙信が上野を攻略
沼田地方は北条、武田、上杉の三つ巴の戦乱地となる
 
1566年… 上杉謙信が沼田衆の小中家成に名胡桃城の備えを堅固にするよう命じる
 
1578年… 御館の乱に乗じて北条氏が沼田城に進出
 
1579年… 真田昌幸が北条氏の前線基地として名胡桃城を築城(改築?)
 
1580年… 真田昌幸が小川城主・小川氏と同盟を結ぶ
真田昌幸が沼田城を攻略
 
1581年… 沼田平八朗が処刑され沼田氏滅亡
 
1582年… 武田氏が滅亡
徳川家康と北条が和睦、上野は北条領と取り決められる。北条氏が中山城を築く
 
1583年… 真田昌幸が上田城を築く
 
1585年… 真田昌幸が取り決めを拒否
 
1586年… 北条氏が上洛の条件として徳川家康との和睦の約束(利根、吾妻郡の領有)を要求
真田昌幸が岩櫃城と沼田城の中継地として名胡桃城周辺の諸城を補強
 
1587年… 豊臣秀吉は大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発令した
 
1588年… 北条家臣・猪俣邦憲は吉田新左衛門に名胡桃三百貫を与える約束をし長井坂城などを補強
 
1589年… 豊臣秀吉による裁定が行われ、名胡桃城を含めた全体の三分の一は真田領に、それ以外の沼田城を中心とする三分の二は北条領と定められた。
北条家臣・猪俣邦憲が名胡桃城を不法攻略する。これに豊臣秀吉が激怒
 
1590年… 豊臣秀吉による小田原征伐が行われ北条氏が滅亡
全沼田領は真田氏が安堵し名胡桃城は廃城となった

概 要

名胡桃城は真田昌幸(幸村の父)が築いた上野国利根郡の山城。
利根沼田地方は上杉、武田、北条による争いが繰り広げられていたが、真田昌幸が吾妻方面から進出し境目城として名胡桃城を築き、翌年に沼田城を攻略した。

1589年、豊臣秀吉は北条家と真田家による北毛地域の領地争いを裁定しましたが、真田領に残された名胡桃城を北条氏の家臣が不正に攻略した。それをきっかけに翌年、豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼし事実上、天下統一を果たした。
その後名胡桃城は廃上となった。

名胡桃の由来

平安時代に書かれた「和名類聚抄」によると、この付近一帯は「呉桃郡くるみのこおり」 と呼ばれ、その後も地名とは別にナグルミと呼ばれ続け、城の名に由来している。1492年ごろには名胡三郎景冬がこの地にいたといわれている。

立 地

利根川と赤谷川が合流する南西方向に広がる名胡桃平とよぶ河岸弾丘面の一角に立地する。
段丘は約6万年前にできたとされ、河川敷との間には比高約70mの崖が連なっている。

規 模

開析谷により侵食され突出した要害地を空堀で区画し、ささ郭・本郭・二郭・三郭の主要分を直に連続させた連郭式の縄張り構造の山城で、西側に般若郭が独立し、南西には外郭が広がっている。南東を流れる湯舟沢を利用した水の手(城や砦(とりで)などへ飲用に引く水)があり、北東端には物見も見られる。

本 郭

現在は、長さ約51m幅約30mの洋梨形だが、当時はもっと広かったと思われる。郭の緑辺には土塁の基底部分が残っていて、土塁が廻っている。

二 郭

大きさは約65×50mの台形で西側の緑辺は広く崩落して波打った形になっている。中央部に広がる建物敷地は、周囲より1mほど低く平坦に造成されていて、西~南~東側には段があり幅6~7mの土塁基底部が残っている。
郭の北側と南側にはそれぞれ特徴的な虎口が存在し、両脇に溝を持つ幅2.5mほどの通路が南北野門を直接結んでいる。
南虎口からの通路面はスロープになっており、南北の虎口周辺の土塁基底部には石積があり、通路脇の溝の壁には部分的に石が並べられている。

二郭南虎口

二郭が直接見透かされないように、場内の建物敷地より一段高い位置に造られている。
二郭堀切は幅11~13m深さ5.5~7mで堀切法面の傾斜は三郭側が45度二郭側が55度と角度を変えて掘られている。
堀切は直線的に設計されておらず、堀幅半分ずらして掘られている。堀切・土塁・門により左右に曲がりながら侵入する敵を、正面や横方向かた攻撃できる構造でこてを「食い違い虎口」と呼ぶ。

二郭北虎口

二郭北虎口の特徴は、郭内の通路から続く4個の礎石による門址で、うちひとつは石塔の切石が再利用されている。
通路東脇の溝は門をくぐり暗渠排水として本郭堀切まで伸び、溝横から立ち上がる土塁の腰部には4~6段の自然石による乱石積が確認できる。
本郭堀切は幅14~16m深さ7~9mあり法面は二郭側より本郭側のほうが20度ほど急斜面で、土橋の左右で堀幅を変えて、大きくクランク状に進入する構造になっている。

三 郭

大きさは64×26で、東西に長い郭。外郭との間の堀切は幅約12m深さ5~7mあり、西側の堀底は般若郭との間の殿坂と合流し北へ伸びている。

馬 出

名胡桃城では、三郭虎口の外側経20m程の円形の馬出堀を深さ約1.2mの平底に堀り、その内側に半円形の小高台を残し馬出としている。
馬出と外郭の間は馬出の西側に橋受溝を掘り外側に期壇を設け、長さ約8mの木橋を架け渡して、直線的に侵入できないようにしている。
また、三郭と馬出をつないでいた土橋の一部を掘りきって長さ約5mの橋に架け替え補強されていた。

ささ郭

長さ約31m幅14mで、中央には約1m掘りこんだ幅2~5mの通路があり、その両側を1mほど盛り上げた土塁が挟んでいた。通路の先端には礎石が4個設置され、搦手門があった。土塁の内側には、自然石を3~4段乱雑に積んだ石碑がみられる。
本郭との間は、幅約12m深さ約6mの堀切で区画され、幅1ほどの狭い土橋で連結されていた。

秀吉の天下統一につながる城

1582年に武田氏が滅亡すると、真田氏は群馬県北西部の吾妻川流域を支配下に置き、特に、岩櫃城を拠点にして沼田城を巡って北条氏と争奪戦を繰り広げるようになる。
豊臣秀吉はこの争いを裁定し、利根川を境にして沼田城は北条氏の城となった。沼田城には猪俣邦憲が配置されることになったが、その間に秀吉は1585年に全国の大名を対象とした「惣無事令」と呼ばれる大名間の領土争いを禁じた法令を出した。
このことによって大名間の私闘は禁じられることになったのだが1589年に猪俣邦憲がこの法令に背き利根川を渡って名胡桃城を攻略した。この事件に激怒した秀吉は、翌年北条氏を討伐し天下統一を果たすことになった。
つまり群馬県北部のこの城を巡って日本の歴史が変わっていくことになった。