武蔵国中原の要衝として各勢力の争奪戦が展開された

武蔵松山城むさしまつやまじょう

武蔵松山城

武蔵松山城跡


1.城データ

築城年

  • 1399年

築城者

  • 上田友直(扇谷上杉家)

別名

  • 特に無し

天守構造

  • なし

城郭構造

  • 梯郭式平山城

遺構

  • 空堀、土塁、土橋、虎口

比高

  • 100m(平井金山城)

廃城年

  • 1601年

年 表

1455年… 享徳の乱が勃発
 
1457年… 太田道灌が江戸城を築く。
上杉持朝が川越城を築く
 
1477年… 太田道灌、長尾景春と戦い、上田上野介や松山衆に川越城を守らせる
 
1488年… 両上杉、松山で合戦
 
1494年… 扇谷上杉定正、山内上杉顕定と高見原にて対陣。
定正、荒川を渡ろうとして落馬し急死
 
1505年…山内上杉顕定、須賀谷に移陣を佐竹義舜に伝える
 
 
1524年…北条氏綱が江戸城を攻略し、扇谷上杉朝興は河越城から松山城に移る
 
 
1537年…扇谷上杉朝定、北条氏綱に破れ、河越城から松山城に逃れる
 
 
1546年…河越夜戦勃発
北条氏が松山城を攻略、拼和氏を城代に置く。
岩村城主太田資正、松山城を攻略し上杉憲勝を城主に置く
 
 
1547年…松山城、上田氏の内応により後北条氏が攻略
 
 
1551年…北条氏康、太田氏資に書を送り、松山着城を伝える
 
 
1552年…北条氏康、松山城普譜
 
 
1561年…太田資正、松山城を攻略し上杉憲勝を城主に置く
北条氏康が松山城を攻める
 
 
1562年…北条氏康が高坂に布陣し上杉憲勝が和睦により退去する。
北条氏政、上田朝直に城を守らせる。
上杉景虎が松山城を攻略
北条・武田が松山城を攻める
 
 
1563年…北条家・武田家によって松山城落城
 
 
1564年…北条氏康が松山城に着陣
 
 
1569年…上杉景虎が北条氏へ越相同盟の条件として松山城の引渡しをもとめる
 
 
1571年…北条家、松山町人に市の掟を発給する
 
 
1574年…上杉謙信、松山城下を焼き払う
 
 
1582年…滝川一益が箕輪城に入城
 
 
1584年…上田憲定、下野足利攻め
 
 
1590年…小田原征伐により松山城が豊臣軍によって落城
 
 
1601年…松平家広が松山城に入封
家広の弟・忠頼が浜松城に移封し松山城廃城になる
 

概 要

武蔵国横見郡松山(現在の埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山)にあった日本の城。別名「武州松山城」。
2008年(平成20年)、「比企城館跡群」の一つとして国の史跡に指定された。

規 模

松山城は丘陵の先端部に築かれ、三方を市野川によって囲み、その領域には広大な湿地が広がる。
眼下を流れる市野川は、城のある地形に突き当たって大きく蛇行し、その裾は荒々しく削り取られた崖地である。s城の東側は荒川・和田吉野川の沼濫原で、北東側は丘陵と地続きである。
城の曲輪配列は西から東に向かって、本曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪、曲輪4が一直線にならぶ連郭式で、周囲は規模の大きな空堀が取り巻き、これを取り囲むように兵糧倉跡、惣曲輪等の大小様々な腰曲輪が配置されている。松山城は、東に広がる広大な関東平野と戦国期の山城が集中する西の山間部の分岐点に存在する北武蔵支配の重要拠点であった。
また、この立地は扇谷上杉の家臣から、後に後北条の勢力下に加わった上田氏の支配域の東端と見ることができる。
上田氏の比企郡地方における本拠は比企郡西部の小川・東秩父地域であり、東秩父の安戸城及び浄蓮寺を西端とし、中城・腰越城・青山城・青鳥城などを経由し、松山城を東端とする領域を支配していたことで知られる。

歴 史

築城には諸説あり、は鎌倉時代着期の新田義貞陣営説、応永年間初期の上田左衛門説、応永23年ごろの上田上野介説などがある。しかし、実際城郭としての体制を整えたのは太田氏が、江戸、川越、岩槻の各城を築いた時期に近いものと思われる。
戦国時代(天文年間から永禄年間)に入るとこの城を巡っての上杉、武田、北条の合戦が勃発し三者の争奪戦が行われた。豊臣秀吉の小田原征伐では前田利家・上杉景勝の大軍に包囲され、落城した。
城主・上田氏の滅亡後は、松平家広1万石の居城となったが、松平氏が1601年浜松に転封されたのを最期に廃城となった。

本曲輪

東西45m、南北45mほどの曲輪で、旧状は神社地で社殿等の基礎が残存している。
東北部には突出して「櫓台」が設けられている。二の曲輪との境を画するコの字形の空堀は、本城最大の空堀で幅15m~20m、深さ10m程の規模がある。また折りの多用や堀底の高低差が認められる。

二の曲輪

二ノ曲輪は本曲輪の櫓台を包み込むようにコの字形を示している。
また折が多用されており凹凸が多い複雑な形をしている。
曲輪の最大幅は東西60m、南北64mで、本曲輪より1mほど低く築かれている。
曲輪内は平坦地であるが、東北の肩部には1mほどの小高い盛り上がりが認められる。二の曲輪を取り巻く空堀内に土橋状の遺構が認められ現在この部分は三の曲輪からの通路となっている。

三の曲輪

三の曲輪は東西18m、南北60mの細長い曲輪である。北部では土橋を通じて長さ50m、幅10mの曲輪へ連なる。
南側には「馬出」から通じる通路状のルートがある三の曲輪東部には、丘陵を南北に分断する形で「堀切」が配されている。三の曲輪と曲輪4の間にある堀切は、北西部で根古屋口とつながっており、城内外を区別する大堀切となっている。

兵糧倉

本曲輪の北西を防御する複数の曲輪のひとつ。東西20m、南北45mほどの規模がある。
この場所は特定する文書や絵図等は確認されていないが「兵糧倉」と通称されている。

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