伊達家家臣国分家の居城

松森城まつもりじょう

松森城


1.城データ

築城年

  • 戦国期

築城者

     
  • 不 明

別名

  • 鶴ヶ城

天守構造

  • 無し

城郭構造

  • 平山城

遺構

  • 堀、土塁

比高

  • 70メートル

主な城主

廃城年

  • 不 明

立 地

泉中央駅の東約3kmの小高い丘が松森城である。現在城跡は大きく西郭群と東郭群に分かれている。
大手は南側であり、南麓には東西に街道が走っている。東は留守氏の岩切城方面へ、西は七北田・根白石方面へと通じている。

国分家の居城

 松森城は、一般的には国分市の居城とされている。
 国分氏は、この地域を治めた有力領主で仙台城の前身である千代城や、その東南に位置する小泉しろを居城としていたとされるが、最近の研究ではこの松森城が居城であったとされる。
 ただし定かではない…なお1542年7月の史料に、当時の当主・国分宗政とともに松森金内正久なる人物が登場している。がこの人物の詳細は不明で松森城となんらかの関係があるかもしれない。

伊達家の直轄

1587年に二度にわたる国分家の内乱を機に、伊達政宗が国分領を直轄化すると、松森城は頻繁に史料に登場するようになり、北側の黒川方面へと通じる「松森口」を押さえる伊達氏の「境目の城」と化していったそのため在番制が敷かれ、石母田家や栗野家などが在番している。

その後の

1590年の奥州仕置きの際には、蒲生氏郷が松森に着陣し、さらに黒川の下草に向かったという。これが事実だとすれば松森城は少なくとも1590年まで存在していることになる。

参考資料(引用元)

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