佐竹昌義が築城した「佐竹氏発祥の城」

馬坂城まさかじょう

千石城 提供元:古城巡り写真館 様


1.城データ

築城年

  • 1131年

築城者

     
  • 佐竹昌義

別名

  • 間坂城
  • 佐竹城
  • 天神林城

天守構造

  • 無し

城郭構造

  • 平山城

遺構

  • 曲輪、空堀

比高

  • 50メートル

主な城主

  • 佐竹
  • 稲木氏
  • 天神林氏

廃城年

  • 1657年

概 要

源義光の孫の源昌義(佐竹昌義(初代))が築城したのが始まりとされたいる。
その後、昌義の子・隆義の時に常陸太田城に移り、馬坂城にはその子・義清が入り、稲木氏を称した。山入の乱(佐竹の乱)で稲木氏が滅ぶと、佐竹義俊の子・義成が馬坂城に入り、天神林氏を起こすがこれも山入氏に吸収され没落していまう。その後の城主は不明だが太田城の支城として存続した。しかし1902年の佐竹氏の移封により廃城となった。

佐竹氏の定着

佐竹氏の祖先・新羅三郎義光は苦戦する兄を救おう、奥州に下向したという「後三年の役のさいの美談」として有名な話である。しかし実際は奥州での権益の争奪千に遅れをとることを心配して、慌てて下向したものである。
その後、常陸国の有力豪族の常陸平氏(吉田一族)から妻を得て、その勢力を自らの勢力とした。 そして、遅れて常陸国に進出してきた甥の源義国と5年以上に渡り常陸国で争う。
帰洛命令にも従わなかった義光は常陸国に勢力基盤を構築し、昌義の代には婚籍関係を通じて奥州藤原しとの提携を深め、北関東の軍事貴族としての地位を築いた。

立 地

佐竹氏が最初に本拠地としたことで有名な馬坂城は、その後の主城となる太田城(舞鶴城)の南西約三キロの場所に位置する。沖積(流水が運んだ土砂などが積み重なること)低地に張り出した舌状台地の上を刻んで構築された城郭の遺構は、現在大半が畑や住宅地となっている。近くには佐竹氏の名の由来ともなった「佐竹寺」が所在する。

城地は、近世の天神林村の一角に含まれ、これに稲木、谷河原、磯部、上河合、下河合、藤田三才の諸村を合わせたあたりが、平安時代「佐竹郷」と呼ばれた地域で「佐竹」の名字のゆかりの地である。
城内には常陸太田と瓜連、石塚、笠間とを東西につなぐ笠間街道が城内を通過するが、この幹線道も馬坂城の立地に関係している。八溝山系の高く厳しい山並みが北から南に延びる常陸北部では、その合間を縫うように南北道は成り立っても、東西交通が成立するのは難しい。この笠間街道は初めて、後の南郷街道・天下野街道・棚倉街道といった南北街道を横につなぐ、本格的な東西道が成立し、それを太田の手前で抑える役割がある。

構 造

現在残された遺構はおおむね戦国期のものと推測されるが、発掘調査などは行われておらず詳細はわからない。
大手口は東にあり、ここから西に張り出す台地に三本の堀切を入れて、三つの曲輪を造り出す。南側の緩斜面には帯曲輪や腰曲輪が丁寧に構築されていた。
御殿は最も広い地域中央の平坦地で、ここに石碑と説明版が建っている。西側には古墳を転用した物見台がのこる、さらにここから西に張り出した尾根の先端部は、横堀で囲まれた独立した曲輪になっている。

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