蘆名家の居城として発展した現在の会津若松城

黒川(若松)城くろかわ(わかまつ)じょう

黒川城 提供元:ウィキペディア(Wikipedia)


1.城データ

築城年

  • 1384年

築城者

     
  • 蘆名直盛(七代目)

別名

  • 鶴ヶ城
  • 会津若松城

天守構造

  • 有り

城郭構造

  • 梯郭式平山城

遺構

  • 石垣、土塁、堀

比高

  • 20メートル

主な城主

廃城年

  • 1874年

立 地

会津若松城のある会津若松市は、会津盆地の南東隅に位置している。市街地の東側には背炙山山系が走り、その扇状地から西に延びる独立丘陵の端部に若松城が立地している。
また、城の南側には、この背炙山山系から流れた湯川(羽黒川・黒川)が流れ、二十の堀の役目を果たしている。蒲生氏の町割り以前には、湯川は途中で車川と二手に別れ河川の間に城下町が作られていた。

蘆名家の本拠地として

 黒川城を築城した蘆名氏は神奈川県の三浦半島を相模邦「蘆名」の地名に由来するとされる。会津へは1189年の奥州合戦の戦功により三浦義明の七男である佐原義連が会津を与えたと伝えられていたが、現在では鎌倉時代の中期以降に北条氏との関わりから会津を治めるようになったと考えられている。
 蘆名家は、この佐原義連を初代とするが義連の子の盛蓮は四男・光盛に家督を譲り、この時期から蘆名家を名乗るようになる。また義連は長男・経連に猪苗代、次男・広盛に北田、三男・盛秦に藤倉、五男・盛時に加納、六男・時連に新宮を与えている。
 しかし、実際に会津に下るのが七代・直盛の時代とされ、この時に初めて館が築かれ、これが黒川城(若松城)の初代とされる。その後、同族の中で争いは続くが、蘆名氏が次第に勢力を持つようになり、15代・盛舜の時に勢力拡大の基盤が築かれ、その子盛氏の時に全盛期を迎えた。
 一時は伊達や上杉と肩を並べる勢力を築いたが盛氏の死後、後継者問題や当主交代などで家中が乱れ勢力が弱まり1589年の蘆名義広の時代に摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ、常陸国げ逃走し約400年続いた蘆名家の時代は終わり伊達政宗が入城した。

蘆名時代

 黒川城の初源については、はっきりしないが一般的には1384年蘆名直盛(七代)が築いた東黒川館とされる。この館については江戸時代に書かれた「新編会津風土記」に詳細がかかれており、要約すると若松城の近辺に東館、若松城の西側の幕内や小館に西館があり、蘆名親子が東館と西館の二箇所に住んでいたという。その後居館である東館が拡大改修され黒川城になったと考えられる。

伊達時代

天正18年(1589)に黒川城に入った伊達政宗は、翌日には米沢から母や妻を呼び寄せている。城の改修では文献から石垣普請などの整備を行っているが、家臣からの大規模な改築については進言を却下しており、このことから、伊達氏が入った黒川城は、すぐに大規模な改築を行わなくても使用できるものが造られていたことがわかる。
近年、蘆名氏や伊達氏の築いた城の発掘調査が行われ、その状況が明らかにされつつあり、虎口部分などに石積みなどが確認されるなど築城技術の高さが知られるようになった。

蒲生氏郷の改修

天正18年(1590)蒲生氏郷が黒川城へ入ると石垣、天守、金箔瓦や桐紋瓦という織豊系の特徴を持つ城郭に大改修された。その姿は奥羽地方における大阪城であり、黒川城から一変したものとなったと考えられる。
1592年に黒川から若松と改め翌年天守が完成したとされる。その後、蒲生秀行その後三年後ほど上杉景勝、再び蒲生秀行、蒲生忠郷と続く。ちなみに上杉景勝の改修はほとんどなかったと言われている。

城 郭

城の構造を見ると本丸の東側に二の丸とその外側には東側を取り囲むように三の丸がある、本丸の北側と西側には馬出が置かれ防御を固めている。
 戦国時代には二の丸と三の丸には侍屋敷が置かれていた。本丸は南東側を天守及び多聞櫓で区画した内に本丸御殿が置かれその外側に帯郭が配されている。
 石垣は、本丸の天守台と本丸を囲むように配置された多聞櫓台、本丸及び北と西の馬出の門台など部分的に築かれている。
さらに1639年に加藤明成により大規模な改修が行われており、北と西の馬出を大きな出丸として整備し、芝土居であったものを石垣に変え現在見られるような城の姿になったと考えられる。

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