1.城データ
築城年
- 完成:1492~1501年
築城者
- 九戸政実?
- 九戸光政?
別名
- 宮野城
- 福岡城(九戸の乱後、南部氏が移り住み名を改めた)
天守構造
- 不明
城郭構造
- 梯格式平山城
遺構
- 曲輪、石垣、堀、土塁
比高
- 45メートル
主な城主
廃城年
- 1636年
年 表
1492年… | 発掘調査によって出土した時期からこの頃に築城されたか? もしくは1568年に九戸政実によって築城された。 |
1592年… | 九戸の乱が勃発し豊臣軍によって落城する。 その後蒲生氏郷が城と城下町を改修し名を「福岡城」と改める 南部氏の本城となる |
1597年… | 南部氏が居城を福岡城から盛岡城に移す |
1636年… | 廃城となる |
1989年… | 九戸城の史跡環境整備事業が行われる |
2017年… | 続日本100名城に認定される。 |
概 要
九戸城は岩手県と青森県の県境近く二戸盆地を流れる馬淵川の右側に位置する。
河岸段丘の地形を巧みに縄張りに取り入れ、馬淵川、白鳥川、猫淵川を外堀とした城は難航不落の城と呼ばれていた。現に豊臣秀吉の奥州仕置き軍はこの城を落とすのに苦戦したとの記録もある。
築城の経緯
築城時期は大きく分けて2つの説があり、1つは「南部根元記」、「奥南旧指録」などによれば1568年に九戸政実が鹿角郡奪還の戦功にて福岡地域を加増されたと記載されており、この時期に築城したとする説。
もう1つは「参考諸家系図」に「光政、修理、このとき九戸より封を二戸の荘に移して白鳥城に居る…」と記されており、また一戸町の実相寺の由緒書きにも「…領主九戸殿より…」と記載されていることから、1492年~の九戸光政の時代頃には築城されていたとする説がある。また発掘された出土磁器からも1492年前後に築城されてもおかしくない事がわかっている。
九戸の乱
九戸政実が叛旗を覆すと豊臣秀吉は甥の豊臣秀次を総大将とした「討伐軍」が動員される。
討伐軍は9月1日に九戸城に到着し9月4日には九戸政実は降伏する。九戸政実ほか主だった武将は、栗原郡の三追で処刑され、他の篭城者は二の丸に閉じ込められ斬殺されたという。
平成7年の二の丸大手付近の調査で、刀傷痕を持つ人骨が出土しており、人骨の損傷の検討かた撫で切りが実際に行われていたと推測される。
南部氏の本城福岡城
九戸の乱後に蒲生氏郷はすぐに九戸城の改修に着手したとみられ、1592年9月10日付け浅野長吉宛の手紙には「~56日中に出来候」とあることから、9月19日頃には竣工したとみられる。また1592年9月13日付け浅野幸長宛の手紙には「…南部方居城…」と記載されており、当初から南部家の居城として改修されたと思われる。
改修箇所は本丸、二の丸の一部で、松も丸もこの時に増築され、在府小路も武家屋敷として整備された。改修後、南部信直に引き渡され、福岡城と改称し、南部氏の本城となった。
その後、南部利直の長子である経直が福岡城主となるが急逝し、城代が置かれたが1636年に廃上となった。廃城に伴い城内の建築物は取り壊され、盛岡城新丸御殿の用材として利用されたと言われている。