1.城データ
年 表
1469年… | 久慈氏12代目・久慈信実が居住したため築城はこれ以前になる。 |
1591年… | 久慈直治の時代「九戸の乱」が勃発。九戸家とは親戚関係だったため、九戸側に付き、処刑される |
立 地
久慈市大川目の西北(久慈川の左岸)の丘陸先端にかまえられた平山城。北側後背地に空濠がめぐらされ、南側は主郭部で南北に長い平場をなして、丘陵頂部より平坦地が3段に作り出されていた。
城から南東に200mほどはなれた平地には堀屋敷と呼ばれる館が存在し日頃はこの館で生活していたとされる。
城の構造
久慈城は丘陸の先端部が小高く盛上がった所に存在していたとされる。背後の尾根を2箇所で堀切、頂部を主郭としている。主郭は頂部から南東側へ向けて五面の平場を造成している、このうち頂部の平場と2段目の平場が重要な場所となっていたとされる。
馬場に面した南斜面には腰郭を2~3段築いた。主郭の西側中腹に湧水箇所があり戦国時代にはここに井戸があったと思われる。
発掘調査
久慈市教育委員会が実施した発掘調査では主郭から掘立柱建物の柱穴群が確認され、また、十文字槍の矛先が出土している。
久慈城の規模はさほど大きくないが保存状態が良好であり久慈地方の城として重要な城跡である。